三十九歳。わが人生もそろそろ折り返し点に近づいたなと思い始めた頃、私は体の不調に悩まされるようになっていた。胃が痛んだ。それに伴って便秘が続いたり、また、急に下痢をしたりした。
胃は前に勤めていた学研映画局の頃に悪くしていた。私は乱暴な生活が好きで、無理に無理を重ねて生きていたので、胃ぐらい悪くするのは当たり前だと思っていた。
だから医者にはかかっていなかった。売薬で済ませ、医者である兄に会っても、笑ってごまかした。
しかし、夏の終わり、吐いたものに血が混じっているのを見た時、さすがにギョッとした。胃の変調が、潰瘍(かいよう)になっているのだろうと思った。その先の、がん、と想像すると、ゾッとしたりした。
仕事は山積していた。書く方に専念出来るわけではなく、動物たちとの生活が佳境に入っていて、胃痛どころではなかった。人が増えたので、北海道で同居していた母屋の前に、一間だけの書斎を建て、原稿に追い詰められると、愛犬の秋田犬、グルを連れて、そこにこもった。
秋が深まるにつれ、胃が悪化した。コーヒー色の吐血を繰り返すようになった。でも、それは家族にはバレずに済んだ。離れ家で仕事をするし、不思議なことに、私が苦しそうに吐き始めると、グルがそばを離れず、血液が混じった吐瀉(としゃ)物をすべてなめとってしまったのである。
この頃、食べるものがまずくなった。特に米の飯は、砂を口の中にほうりこむ感じだった。それでも食べる。食べなければ、生活を維持出来ない。
東京のホテルで食べたパンが欲しくなる。焼きたてのパンにバターを塗ってパクリ。ついそんな希望をもらしたりすると、妻は航空便でパンを取り寄せてくれたりした。
これがまずかった。例によって砂を嚙(か)んでいるみたいだった。けれども、そうは言えない。せっかく努力して取り寄せてくれたパンだから、うまいなあと、その場をとりつくろった。
しかし、ついにバレた。血を吐くところを女房に見つかってしまった。
それからは夢の中みたいだった。女房は学研時代の親友に電話し、吐血の翌日、上京。その三日後には、胃がなくなっていた。
術後、二週間で退院。ホテルで飯を食べた。そのおいしかったこと! 米が芳醇(ほうじゅん)で、いい酒を含んだようにうまかった。なんだこれ、と私は米に酔いしれていた。=朝日新聞2017年07月01日掲載
編集部一押し!
- とりあえず、茶を。 今だけを生きる 千早茜 千早茜
-
- インタビュー 村山由佳さん「PRIZE」インタビュー 直木賞を受賞しても、本屋大賞が欲しい。「果てのない承認欲求こそ小説の源」 清繭子
-
- 新作映画、もっと楽しむ 映画「サンセット・サンライズ」井上真央さんインタビュー お試し移住が変える日常「足元の幸せを大事に」 根津香菜子
- 新作映画、もっと楽しむ 映画「雪の花 ―ともに在りて―」主演・松坂桃李さんインタビュー 未知の病に立ち向かう町医者「志を尊敬」 根津香菜子
- インタビュー ヨッピーさん「育児ハック」インタビュー 「子どもが社会的“野生味”を身につけてくれれば」 川崎絵美
- インタビュー 松下洸平さん「フキサチーフ」インタビュー 僕の言葉を探してつむぐ、率直な今の思い 根津香菜子
- 北方謙三さん「日向景一郎シリーズ」インタビュー 父を斬るために生きる剣士の血塗られた生きざま、鮮やかに PR by 双葉社
- イベント 「今村翔吾×山崎怜奈の言って聞かせて」公開収録に、「ツミデミック」一穂ミチさんが登場! 現代小説×歴史小説 2人の直木賞作家が見たパンデミックとは PR by 光文社
- インタビュー 寺地はるなさん「雫」インタビュー 中学の同級生4人の30年間を書いて見つけた「大人って自由」 PR by NHK出版
- トピック 【直筆サイン入り】待望のシリーズ第2巻「誰が勇者を殺したか 預言の章」好書好日メルマガ読者5名様にプレゼント PR by KADOKAWA
- 結城真一郎さん「難問の多い料理店」インタビュー ゴーストレストランで探偵業、「ひょっとしたら本当にあるかも」 PR by 集英社
- インタビュー 読みきかせで注意すべき著作権のポイントは? 絵本作家の上野与志さんインタビュー PR by 文字・活字文化推進機構