中学生の時、夏休みの課題図書でヘミングウェイの『老人と海』を読んだ。鮮烈な印象があった。自分も早く老人になりたいと思った。
多くの場面が印象的で記憶に残ったが、中でも中学生の私を「むむ!」と唸(うな)らせたのは、意外な箇所だった。老人と少年とのこんな会話である。
〈「ところで、なにがあるんだね?」
「黒豆御飯とバナナのフライ、それからシチューがある」
少年はそれを金属でできた重箱風の容器に入れて、テレイス軒から運んできてあった。かれのポケットには紙ナプキンに包んだ二組のナイフとフォークとスプーンがはいっている。
「だれがくれたんだね?」
「マーチンだよ。テレイス軒の親父の」
「俺はあの男に礼をいわなくちゃあ」
「ぼくがお礼をいっといた。お爺(じい)さんはもうなにもいわなくていいんだ」
「大きな魚の腹の肉をやろう。あの男の親切は今度だけじゃないだろう?」
「うん、そうだね」
「じゃ、腹の肉だけじゃまずい。なにかやることにしよう。俺たちのこと、ずいぶん気をつけてくれてるものな」
「ビールを二本くれた」
「俺はビールの鑵詰(かんづめ)がなにより好きだ」
「知ってる。でも、これ瓶詰なんだ、ハチュエイのさ、瓶はかえしておくよ」〉(福田恆存訳)
この会話の美味(おい)しそうなこと! 本来は貧しい漁師たちの貧しい食事を描いているはずなのに、中学生の私は唾(つば)がわいてきて仕方なかった。バナナのフライなんて初めて聞いたけど、どんな味なのだろう? 黒豆御飯やシチューは大体どんなものかは想像がつくけど、自分の知っているのとはきっと違う。何しろテレイス軒の親父のマーチンが作ったのだから、おふくろ軒の原田栄子が作ったのとは全然違うはずだ。食べ比べたわけじゃないけど、そうに決まっている。それに「大きな魚の腹の肉」というのも、何だか美味しそうだ。普段は魚の肉なんて見るのも嫌なくらいなのに、こういうふうに描かれると何故(なぜ)か美味しそうに思える。さらにその後に出てくる「ビールの鑵詰」! 当時の日本では缶ビールなんておよそ一般的ではなかったし、私は中学生だったから、ビールの鑵詰なんて見たことも聞いたこともなかった。一体どんな鑵詰なのだろう? どうやって飲むのかな? 冷やしておいて、缶切りでプシュッと開けて、うぐうぐうぐと飲むのかな。うわあ、中学生だけどうまそうだな! 飲んでみたいな!
それから五、六年経って、二十歳になった私は、初めて缶ビールを飲んだ。が、その時にはヘミングウェイのこの文章のことを忘れていて、ただ酔っぱらっただけだった――ほろ苦い思い出である。=朝日新聞2018年6月9日掲載
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