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水俣病の60年 人間としての言葉求め続ける

 1956年5月1日、原因不明の奇病発生が新日本窒素肥料(現チッソ)付属病院から熊本県の水俣保健所に報告された。「水俣病公式確認」である。だが「公」を司(つかさど)る機関は、現地の悉皆(しっかい)調査、新日窒水俣工場の排水停止、食品衛生法の適用など、とりうる措置のいずれも行わなかった。水俣病の発生は単に「確認」されたのみで、排水流出は続き、65年、新潟でも水俣病が確認された。

公共による加害

「公害」とは、「公共に対する害」なのではなく「公共の概念による加害」と解釈してはどうか、と、水俣病事件を自身の原点とした公害学者・宇井純(1932~2006)はいった(『公害に第三者はない 宇井純セレクション(2)』)。「公益」(=経済活動の維持)には最大限配慮しながら、その追求を妨げる存在は無視するという思考様式が、20万にも上るとされる潜在被害者の苦悩の発端だった。

 現在も、有機水銀に何らかの経路で曝露(ばくろ)し、心身ともに水俣病事件に巻き込まれていながら、黙して語らぬ人が相当数いる。「せつないのは自分だけでいい」と、家族にすら病をかくす状況。救済をうたう認定審査制度が強いる煩雑な手続き、無機質な結果通知、そして申請を金銭と結びつける他者の無理解が、刃(やいば)のように人びとの肺腑(はいふ)をえぐる。私たちは、どこから、変わっていけるのだろうか。
 水俣病の症状を抱えながら、「自分で自分の世界を」もちたいと技能を身につけ、建具店を開いた緒方正実(熊本県旧湯浦町生まれ)は、「一生懸命働いて働いて得た金」でも、補償金と勘違いされることが悔しくて、病気の認定申請はしないつもりでいた。だが96年、38歳のとき、「水俣病政府解決策」の総合対策医療事業に申請したところ、思いがけず「非該当」と通知される。間違いではと熊本県に問い合わせた瞬間から、行政との真剣な闘いがはじまった(『水俣・女島(めしま)の海に生きる』)。

信じる力の強さ

 緒方は行政に、組織人としてではなく人間としてのことばを求め続ける。家族の被害歴のわかる資料を差し出し、「どぎゃん思うのか、一人ひとり感想を言え」。組織の中にいることで、人間は、思うこと感じることの表出を自制しはじめる。空しさに負けそうになりながら、そこにいる人間の心に賭けた緒方の、信じる力の強さ。やがて行政の人びとが、己の刃を自覚する瞬間が訪れる。
 大学在学中に水俣に出会い、移住して写真を撮り続けた塩田武史(1945~2014)は、被写体の人びととの、ことばを介さないやりとりをひたすらにいとおしむ。とりわけ、胎児性患者・半永一光(はんながかずみつ)さんと遊んでいる最中にいたずら心から鳩(はと)を持たせ、その体温で彼が破顔一笑した瞬間を撮った写真は、胸を打つ。「今までこんなに人が喜んだ顔を見たことがない」(『僕が写した愛(いと)しい水俣』)。
 塩田は別の機会に、移住した初期のころ水俣病の告発を意図して撮った写真への苦い後悔を記している。被害の訴えやすさを重視するあまり、水俣病を狭い病像に押し込め、認定申請の棄却の増大に加担してしまったのではないかと。
 それから30年以上を経て編まれたこの写真集には、うまく獲物を捕らえて満足げな表情の漁師や、成人の晴れ着姿ではにかむ女性など、モノクロとは思えない色彩があふれる。「悲しいことの中に楽しいということを発見できたならば、その人はものすごくすばらしいものを見るような気がする」との緒方の思いと共鳴するような作品だ。
 人間と人間が出会い、関係を結ぶこと。そこのみに、「公共の概念による加害」を避ける道があるのかもしれない。=朝日新聞2016年12月18日掲載