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ガザに至る苦悩の歴史 翻訳が伝える当事者の多様な声 鶴見太郎

イスラエル軍の攻撃によってガザの難民キャンプに避難を強いられたパレスチナ人=5月7日、ロイター

 パレスチナ問題(イスラエル・パレスチナ紛争)についての専門家は日本では多くないが、日本語でも多様な観点の議論に触れることができる。それは少なからず日本の翻訳文化によっている。専門家が無償かそれに近い形で重要な文献を翻訳する文化だ。

 歴史的に見れば、パレスチナ問題はヨーロッパのユダヤ人迫害に端を発することはよく知られている。だがこの歴史の流れは、世界でも、西ヨーロッパの文脈で漠然と理解されてきた。植民地主義の結果や国民国家体制の負の側面としての理解だ。

 もちろん、この理解は的外れではない。ただ、他の国際問題もたいていはそうした背景を持つ。では、パレスチナ問題に固有の背景は何か。

 イスラエルが建国される時期までにパレスチナに渡ったユダヤ人の大半は、西欧ではなくロシアを含む東欧地域の出身だった。この地域では20世紀前半、ユダヤ人を含む多くの人々が強制移住や虐殺を経験した。そして、ホロコーストの主戦場にもなった。

東欧に多い犠牲

 ウクライナからパレスチナに逃れた家族のもとに生まれたジェノサイド研究者オメル・バルトフによる『ホロコーストとジェノサイド ガリツィアの記憶からパレスチナの語りへ』(橋本伸也訳、岩波書店・5720円)は、この背景とパレスチナ問題を関連づけようとする稀有(けう)な書物だ。本書は、ホロコーストがもっぱらドイツ史の文脈で理解される一方、犠牲者の大半が東欧出身者だった事実が等閑視されてきたことを指摘しながら、東欧のホロコーストの現場を描く。国家に統制され、ある意味秩序だった強制収容所での虐殺と異なり、東欧では、複数民族からなるコミュニティの住民の手によって虐殺が繰り返されたのである。

 1948年に始まる第1次中東戦争まで、何度かの衝突を経てもなお、パレスチナのアラブ人とユダヤ人は隣人としてそれなりに共存してきた。それは、東欧においてポーランド人やウクライナ人などとユダヤ人が隣人として共存してきた様子に似る。隣人が突如として襲い掛かってきた記憶を東欧出身のユダヤ人は持つ。それは、まさにパレスチナのアラブ人(パレスチナ人)が48年に経験したことだったのだ。イスラエル人バルトフは、東欧史に照らしてパレスチナ人の苦境を等身大で理解しようとする。

家族襲った悲劇

 東欧においてユダヤ人が追い出された家に非ユダヤ人が住み着いたように、パレスチナ人が「ナクバ」(大災厄)と呼ぶ48年の戦争前後でアラブ系住民が追い出された住宅にユダヤ移民が住み着くケースは多く見られた。バシール・バシール、アモス・ゴールドバーグ編『ホロコーストとナクバ 歴史とトラウマについての新たな話法』(小森謙一郎訳、水声社・6600円)のなかのある章は、テルアビブ南隣の港町ヤッフォ(ヤーファー)でパレスチナ人が残した家に住むことをあえて辞退したホロコースト生存者の夫妻の事例を紹介し、この事実を逆照射する。

 追い出された側のパレスチナ人一人一人の、一言で表しがたい苦悩が刻まれたアラビア語小説も、古くから日本語に翻訳されてきた。若くして何者かに爆殺されたパレスチナ人作家ガッサーン・カナファーニーの短編集『ハイファに戻って/太陽の男たち』(黒田寿郎、奴田原睦明訳、河出文庫・1078円)がその代表だ。表題作「ハイファに戻って」では、48年、北部の港町ハイファに赤子を残してヨルダン川西岸に逃れ、67年以降の西岸のイスラエル占領後に20年ぶりにハイファを訪れた夫妻が描かれる。自宅にはユダヤ人が住み着き、息子も政治的見解を含めイスラエル人として育っていた。

 ふだん日本語で本を読む私たちも、こうした翻訳により、彼らの声を確かに受け取ることができるのである。=朝日新聞2025年5月17日掲載