物理学者の文章世界 厳格な数理にあらわれる詩情 全卓樹

ブラックホールが見つかったと聞くと、天体現象に疎くとも新聞記事のぼやけた画像を熱心に観(み)入ってしまう。桜島大噴火で噴煙の中に雷が立った映像を見れば興奮するものだ。日ごろ安住する世界の裂け目がふと顕(あら)わになった時、誰しもが世界の成り立ちの不可思議を考える。多くの手が科学本に伸びるのもそのような時だろう。
しかし科学書は取っ付きにくい。専門用語やグラフの羅列が続くと数ページで眠くなる。小説や演劇のような、一般人が読んで楽しい科学書は無いものか。
その辺の事情が、科学を志す学徒にあっても同様なのは、あまり知られていない。
半世紀ほど遡(さかのぼ)る大学時代の忘れない思い出にK教授の講義がある。彼は学生の間で「最悪電磁気学」と呼ばれていた。教室に現れるなりこちらには目も向けず、ひたすら記号と式を板書し続ける90分、それは無味乾燥を絵に描いたような講義だった。しかしここで話したいのはそれではなく、K教授の最終講義である。学生たちに普段見せることのなかった情熱とともに語られたのは、情報将校としての滑稽で哀(かな)しい諸体験、アメリカ遊学時代の悲喜交々(こもごも)、恩師との出会いや学友たちとの水の如(ごと)き交わり。彼の名を世界に広めた発見に関わる不思議な巡り合わせ。学問に捧げた精神の旅路の奇譚(きたん)に、講堂全体が陶然となったのが、ありありと想(おも)い出される。
驚くべきことに先日、そんな碩学(せきがく)の目眩(めくるめ)く最終講義を、そのまま活字にしたような書物に出会った。亀淵迪(すすむ)『物理村の風景』(日本評論社・2970円)である。そこに登場する恩師学友とは、ニールス・ボーア、ヴェルナー・ハイゼンベルク、アブドゥス・サラム、朝永振一郎といった、20世紀物理学史上の神話的巨星たちである。黄金時代の欧州文化を内在化しバイロイト詣でを欠かさなかったワグネリアン亀淵博士。各ページの隅々から、南加賀の由緒ある家に出て旧制高校に学んだ博士の、温厚にして剛直な古武士の風格が漂って来る。これは亀淵博士自身そこに大きな足跡を刻んだ素粒子物理学の英雄時代を、生々しく伝える証言の書でもある。
物理学の巨人たちを巡る旅といえば、長らく内輪の秘宝扱いを受けてきた太田浩一『物理学者のいた街』4部作がある。著者自身の足で時を惜しまず欧州を巡った旅行記で、ここではその掉尾(ちょうび)を飾る『それでも人生は美しい』(東京大学出版会・3080円)を挙げよう。物理学者たちの生家を訪ね活躍の地を歩く旅は、最後に必ず墓所の巡礼で締めくくられる。哲人文人の足跡に数多く出会う旅路に古欧州の残り香が薫る。どこまでも緩やかなほのぼのとした語り口。太田博士の確かな筆遣いに心が休まる。
確かな筆遣いが流麗な名人芸に達した「文人科学者」にカルロ・ロヴェッリ博士がいる。大作『時間は存在しない』にいきなり挑まずとも、エッセイ集『規則より思いやりが大事な場所で』(冨永星訳、NHK出版・2200円)にてその本領を味わえる。厳格な数理の真只中(まっただなか)に神秘的詩情が立ち顕われる「ロジャー・ペンローズ」章や「ブラックホール」章三つ。科学の水脈を古典古代やルネッサンスに辿(たど)るルクレティウスやレオパルディを扱う章たち。「ロリータとイカルスヒメシジミ」章に見るナボコフ唯美主義への帰依、「アフリカでの一日」章にあるンブールのイスラム寺院での理神論形而上学の信仰告白。知性の閃(ひら)めきと華やかな色彩的表現をもって、抽象と日常の境目を軽々と越えて翔(か)ける、第一級の科学者にして第一級の文筆家という奇跡。まるで寺田寅彦が没後二十年を経て、地球の裏側イタリアに再来したかのようである。
自然の神秘に触れる驚異の感覚をそのまま捉えた、一般人が読んで楽しい科学本は、たとえ数は少なくとも、仔細(しさい)に探せば見つかるのである。=朝日新聞2025年5月31日掲載