1. HOME
  2. インタビュー
  3. 愛猫通して見つめた自由 保坂和志さん「ハレルヤ」

愛猫通して見つめた自由 保坂和志さん「ハレルヤ」

保坂和志さん=飯塚悟撮影

 「小説は二の次。小説より猫のことをずっと考えている」。優れた短編に贈られる川端康成文学賞の贈呈式で、保坂和志さん(61)はこうあいさつした。会場は笑いに満ちたが、本人はまるきり本気だ。収録した4編のうち、受賞作「こことよそ」だけ猫が出てこない。それが残念だ、ともいう。飼い猫の「花ちゃん」を書いた作品を集めた短編集『ハレルヤ』(新潮社)。猫を通して人間の心を探り、世界を見つめる。

>「ハレルヤ」を取り上げた朝日新聞「文芸時評」はこちら

花ちゃん=保坂和志さん撮影

 谷中の墓地でうずくまっている子猫を見つける、1999年の短編「生きる歓(よろこ)び」を『ハレルヤ』に再掲した。出会いを書いたときから、「最期もきっと書くんだろうなと思っていました」。
 花ちゃんは18年8カ月、作家のそばにいた。拾ったときから片方の目がなく、16歳でもう一方の目も視力を失い、17歳で胃にリンパ腫が見つかった。表題作では、治療法を求めてあたふたする人間を横目に、花ちゃんはひょうひょうと生きてゆく。
 「言葉を使うから愚図(ぐず)になるにゃりよ」。花ちゃんの吹き替え、といってこう書く。猫は「心に過(よぎ)る感触をそのまま持つ」が、人は「心に過る感触に言葉を与えようとして、感触をだいぶ薄めたり、場合によってはそれの逆になる言葉を手にする」と続ける。

言葉に縛られない 感触を頼りに

 「言葉や論理のおかげで人間は進歩してきたと思われているが、それらは人間を縛り付ける。言葉は人間を不自由にさせるものだと思っています」。この思いに至ったのは、猫と30年を過ごしてきたから。猫はこちらの言うことなんて聞かない。年寄り猫はなおさらだ。猫がままならないように、現実だってままならない。「『ハレルヤ』は自然とこうなった。僕は花ちゃんのお筆先で書いている。人間が主体的に何かするのは好きじゃない。しょうがなくやっちゃったことの方がいい」

花ちゃん=撮影・岡田望

 花ちゃんが死んで、家の中から猫はいなくなった。いまは外猫のシロちゃんだけ。猫の話は尽きないが、猫を思うことは文学や思想につながってゆく。
 猫と一緒にいることで、「考えに輪郭が与えられた」という。「みんな、考えをテンプレートで借りてくるでしょ」。自分なりの輪郭をつかむために、感動したこと、心が動いたことをシンプルに書く。「人々を不自由さから解放することを考えている。小説はテーマやメッセージでそれをやるけれど、そのとき小説のスタイルはかちかち。口では自由だと言いながら自由じゃない。だから小説を書くやり方全体を自由にしなきゃ」

花ちゃん=撮影・岡田望

 「保坂節」と言われる文体は横道にそれたり戻ったり流れたり跳びはねたり。収録作「十三夜のコインランドリー」では、「私の今日は猫が私の顔の横に立ち止(どま)って歩いていったときオシッコ臭くて目が覚めた、」と始まり「さいわい晴れていた。」で文が終わる。この前に米歌手ジャニス・ジョプリンの挿話があり、後ろには100円均一で買ったジョン・クリーランド『ファニー・ヒル』の引用がある。
 「私」の一人称で、作家を思わせる生活そのままが語られるが、私小説か、エッセーか、と問うのは愚問。「私小説かどうかは意味がないし、小説かエッセーかという問いにも意味がない」。「私」を書くのが私小説なら、「僕は語り手が『私』なだけで、私を見てじゃなくて、猫を見て、だから」。私小説という概念にこだわると言葉が不自由になるよ、とも言う。
 「くだらないことも含めて、人は言葉にしなくてもいつもいろんなことを考えている。目指すのは完成度じゃない。言葉にしそびれても、何かが心に去来したならそれでいい」(中村真理子)=朝日新聞2018年9月12日掲載