1. HOME
  2. コラム
  3. 大好きだった
  4. 素数の美しさに似た潔さと神秘性 塩田武士さんが大学1年のとき観た舞台「笑の大学」

素数の美しさに似た潔さと神秘性 塩田武士さんが大学1年のとき観た舞台「笑の大学」

「笑の大学」 写真提供:株式会社パルコ 撮影:谷古宇正彦

 その舞台には一切の無駄がなかった。
 中央にテーブル。上座には上等な肘掛け、下座は粗末な丸椅子。右奥にも茶を飲むためのテーブルセットが一つ。あとは役者の男が二人だけ。場に漂う潔さと神秘性は、素数の美しさに似ている。二時間弱をこのひと幕で見せた舞台「笑の大学」から、私は作家という生き物の哲学と矜恃を学んだ。
三谷幸喜さん作、山田和也さん演出で、初演は一九九六年。近藤芳正さんと西村雅彦さんの二人芝居だ。公演パンフレットによると、或る芝居を観て退屈していた三谷さんが、上演中「自分だったらどうするか」を考え続け、その芝居が終わったときには「笑の大学」のプロットが完成していたという。それからラジオドラマ版を経て舞台になった。

 昭和十五年秋、警視庁保安課の取調室。浅草の劇団「笑の大学」の座付き作家である椿一は、新作の台本を調べる警視庁検閲係の向坂睦男を前に緊張していた。最近まで満州に派遣されていたという向坂は見た目通りの堅物で、戦時にそぐわない娯楽を敵視していた。外国の設定を全て日本に変えさせるなど無理難題を吹っかけ、上演許可を出そうとしない。だが、椿は喜劇作家のプライドから、設定変更を逆手に取ってさらに面白い台本へ変えていく。一週間に及ぶ激しい攻防を繰り返すうち、立場の違う二人の男に奇妙な友情が生まれ始め……というあらすじ。
 昭和十三年に国家総動員法が公布され、翌年から映画の検閲やパーマの禁止が始まる。同十五年秋と言えば、相互監視の隣組が組織され、大政翼賛会が発足するなど国民の生活が息苦しくなっていく最中だった。当時の資料を見ると「ダンスホール最後の夜」や「産めよ増やせよ」といった文字が踊り、自由が掌からこぼれ落ちていくような閉塞感を覚える。そんな時代背景と対峙しながら、椿一は上演許可を得るべく闘うのだった。

 高校生だった私はテレビでこの舞台を観たのだが、そのとき初めて二人芝居というものを知った。それからビデオテープが擦り切れるほど視聴し、次第に舞台そのものに魅了され、関西にある小劇団のワークショップに参加するようになる。
 私からすれば、会話だけで二時間の物語をつくること自体、相当難しく思えるが、とびきり面白い言葉の応酬ならなおさらだ。堅物向坂の融通の効かなさ、何度怒られても笑いを入れてしまう椿の性分。両者の特徴を最大限に活かす形で、検閲される台本の完成度が高まっていく。その皮肉が戦争という人類最大の愚行に向けられている点に「笑の大学」の強さがある。
 そして一九九八年夏、大学一年生だった私は、この目で彼らを見る機会を得た。大阪の「近鉄アート館」。満員の客席、シンプルで美しい舞台、近藤さんと西村さんの熱演。ほぼ全ての台詞が頭に入っているはずなのに、笑わずにはいられない。終盤、舞台いっぱいに戦争の影が落ちたとき、椿一は「僕は自分を信じている」と言い放つ。喜劇作家のひたむきさが、グッと胸にくる。それは私に足りないものだった。そういった感動的なシーンにも笑いがあり、自由に表現できる幸せ、笑うことの大切さが染みた。

 幸運なことに、この日は記念すべき第百回公演という節目。終演後、汗だくの近藤さんと西村さんに向け、私たちは予め配られていたクラッカーを鳴らした。二人の驚いた顔を見て、演者とともに喜びを共有できたことがとても誇らしかった。
 私は舞台を通して「創作に必要な適正人数は、創り手によって違う」ことを学んだ。それはこれから一人で物語をつくることになる自分にとって、大きな励みになった。
新連載の前に重圧を感じるのは毎度のことだ。そのたびに「僕は自分を信じている」という椿一の台詞を思い出す。「笑の大学」は私にとって、真の「大学」なのだ。