生まれ育った北海道十勝にもうなぎ料理屋はあったのでしょうが、豚丼のほうがなじみ深かったせいか、私は上京して講談師になるまでうなぎを食べたことがありませんでした。
前座修業をした昭和の終わりには、上野広小路に本牧亭という講釈場があり、毎日のように講談会や落語会が催されていました。午後一時の開演前、前座は早くから楽屋入りをして着物に着替え、高座に雑巾をかけたり、お湯を沸かしたりして出演者を迎える準備をします。
ある日、トリのはずの大先生が開場前に楽屋入りしました。どうも酒席の流れで朝帰りらしい小金井芦州(ろしゅう)先生です。お土産の折り詰めを手に提げてぶらぶら廊下をやって来て、座卓にそれを置くと上座の座布団にどっかと胡座(あぐら)をかいたのです。歌舞伎役者のような美男子で女性に人気のある先生ですが、前座の私にとっては雲の上の、礼儀に厳しい恐るべき存在でした。
先生は一言も喋(しゃべ)らず折り詰めの蓋(ふた)を開けて箸を割ったので、私はお茶を出し座敷の片隅に正座をしました。頭の中は教わった前座の仕事を行使することでいっぱいになっています。お茶がなくなったら新しいのを淹(い)れる。羽織を脱ごうとしたら素早くそれを受け取って衣紋掛けに掛ける。鼻紙を使ったらくず籠を近くまで持って行く……。
ちょうど兄弟子が二ツ目に上がって前座が私ひとりになったので、しくじらないようにと緊張して、たぶん血走った目で見詰めていたのだと思います。ふと箸を止めた先生が折り詰めの中身を半分に分け、片方を蓋の裏にのせ、それを指さしながらこちらを向いて「ほら」と仰(おっしゃ)ったのです。私ははっとして、すぐに「ありがとうございます」と受け取ったものの、つい見詰めてしまってよほどお腹(なか)を空(す)かせているように見えただろうかと、恥ずかしくなりながら台所に逃げ込みました。
蓋にのったうな重は、とっても柔らかくて甘辛い味がご飯にたっぷり染みて、初めて味わう美味(おい)しさでした。恥ずかしかったことも忘れてあっという間に口に運んでしまいました。
座卓をのぞくと芦州先生の折りも空になっています。私は新しいお茶を淹れてそれを出しながら、先生の座布団の脇に両手をつき「ごちそうさまでした」と頭を下げました。芦州先生は「ん」とだけ仰って、そのあとゆっくりと顔をほころばせ、笑いをこらえるようにしてお茶をすすっていました。たぶん私の声が嬉(うれ)しさのあまり訛(なま)っていて、可笑(おか)しかったのだと思います。
それから、お腹が空くと先輩の食べている物をじっと見詰めて分けてもらうという技を身に付けましたが、うな重を分けて下さったのは後にも先にも芦州先生だけでした。=朝日新聞2018年12月8日掲載
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