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新宿ゴールデン街のママが写した「顔」と「時代」と 写真家・佐々木美智子さんの流転の人生

文:大嶋辰男、写真:時津剛

 「顔」が語ることは多い。バー「ひしょう」を経営する佐々木美智子さんは84歳。流転の人生を重ね、80歳で新宿ゴールデン街に〝復帰〟、この街で3回目のママをつとめる。その佐々木さんが長年にわたって撮り下ろした酔客の写真を『新宿 ゴールデン街のひとびと』(七月堂)にまとめた。映画監督、作家、ミュージシャン、ライター、編集者、ただの飲ンベエ、フーテン……掲載されている写真は300人以上。ページをめくると、70年代から80年代にかけて、この街を吹き抜けた自由でアナーキーな風がよみがえる――。

「写ルンです」で撮った顔写真を拡大コピー

――変わった写真集ですね。写真は顔写真ばかり。しかも画面いっぱいに顔が引き延ばされていて、一見、誰が誰だかわかりません。

 撮影した写真を拡大コピーにかけているんです。人の顔って面白い。どんどん顔を拡大していくと、その人の素晴らしいところ、醜いところ……みんな、見えてきます。ある時から、撮影するときは「笑って」と声をかけるようになりました。笑顔にはその人の本性がよく出ていますね。皮肉をよくいうタイプの人は、笑顔の中にも、皮肉な感じが出ています。

――具体的にはどんな作業をしているんですか?

 レンズ付きフィルムの「写ルンです」で撮影して、コンビニのコピー機で拡大しています。いちおう家に暗室もあるけど、自分で写真を焼くと、お店の仕事に手が回らなくなるのでやりません。

――一人一人の顔写真を見ていると、いろいろな人生があるんだなと思いました。一方、全体を通して見ると、時代や社会が浮き彫りになって見えてくる気がします。

 そうですか。そう言っていただけるとうれしいです。今回は300人分だけ載せていますが、収録できなかった写真もたくさん残っています。これも長生きしたおかげですね。この年まで生きるとは思っていませんでした。長生きしなければ、それまで撮っていた写真もゴミになって捨てられ、世に出ることもなかったでしょう。

――被写体一人一人に寄せている佐々木さんのコメントも読ませます。店主と客の関係を超えて深く人と関わってきたんですね。濃密な交遊録になっています。

〈若い奥さんと二度目の結婚をして幸せな老後送っているって聞いた。どんな色恋沙汰があったのか聞いてみたい〉
〈あの頃、毎日のように一緒に遊んでた。あの笑顔はステキ。会いたいなあ……。〉
〈自殺したって聞いた。フーテンと一緒にラリっていたら良かったのに……。ラリパッパの方がいいよ、いつか覚めるから〉

 思ったことを素直に書きました。失礼なことが書いてあっても、愛情があるから許して、って(笑)。みんな、お客さんというより、一緒に遊んだ仲間であり、同志であり、友だちであり……そういう存在ですね。人に恵まれました。初めてゴールデン街に店を開いてから50年くらいになります。写真集は私の半生の集大成みたいなものですね。

原田芳雄、田中小実昌、たこ八郎……そうそうたる酔客

――そうそうたる人物が写っていますね。映画監督の長谷川和彦さん、作家の田中小実昌さん、俳優の原田芳雄さん、コメディアンのたこ八郎さん……。編集者、カメラマン、記者、映画関係者もたくさんいます。

 70年代から80年代にかけて、ゴールデン街は文化人やマスコミ関係者のたまり場でしたから。自称右翼も自称左翼も来て、一緒にお酒を飲んでいました。サラリーマンのお客さんはあんまりいませんでしたね。

――当時のゴールデン街はどんな感じでしたか?

 一人でふらっと来て、どこかのお店に入れば誰かと会う……そんな街でした。人恋しいお客さんが多かったですね。客同士、議論したり、ケンカしたり、時々、ナンパしたり、熱く、自由な空気が漂っていました。

 ささいなことで「表に出ろ!」と始まって、花園神社に決闘に出かける。でも、結局、殴り合いにならなくて、仲良く帰ってきて飲み直すなんてことはしょっちゅうでした。人間くさい街でしたね。

 ボッタクリバーも何軒かありましたが、よその街と違って、財布がスッカラカンになるまでお金を取られることもない。帰りの電車賃分はちゃんと残してあげていた(笑)。客も「まあ、仕方ないか」と思える金額でした。

若くして、新宿でおでんの屋台を引く

――佐々木さんの人生も興味深いですね。個性的な半生は本(『新宿発アマゾン行き』)にまとめられています。詳しい話はこの本を読んでもらうとして、もともとは北海道の出身で、18歳でご結婚された?

 はい。でも、結婚してまもなく、家に入って、いい奥さんで終わる人生って違うんじゃないかなと思えてきました。そこで、夫だった人に率直にそのことを話したところ、彼は「3年間は待つから。自分がやりたいことを探してきなさい」と言って送り出してくれました。この年になって、ようやくわかりましたが、稀有な、いい人でしたね。感謝しても感謝しきれませんね。あのとき背中を押してくれなかったら、いまの私の人生はなかったわけですから。

――上京後、新宿でおでんの屋台を引きます。

 昭和30年ごろは一人暮らしの若い女性が働ける職場なんてありません。デパートの伊勢丹の裏にたくさん屋台が出ているのを見て、これなら自分もできると思って、屋台のおばさんに「私もやりたいけどどうしたらいいか?」と聞きました。もちろん屋台を引いている若い女性はいません。おばさんからは「これは人生の落後者がやる仕事です。若いんだからキャバレーかバーで働きなさい」と言われました。

――ところが、諦めなかった……。

 当時、新宿の屋台はヤクザが仕切っていましたから、組事務所を教えてもらって、やらせてほしいと頼みに行きました。屋台を引いた経験は私の原点になっていますね。路上生活者や廃品回収をしているおじさん、街娼、ヌードダンサー……底辺で生きている人たちは優しかった。

――そもそも写真を撮るようになったのは?

 常連客の中に日活関係の人がいて、「君はこの仕事に向いていない」「カタギになりなさい」って仕事を紹介してくれたんです。日活の撮影所で映像編集の仕事をしました。でも、私は子どもの頃から集団行動が苦手で(笑)。映画のスチール写真を撮っているカメラマンを見て、「私も一人でできる仕事がしたい」と思って写真学校に入りました。

写真家となり、学生運動を追う

――学生運動を追っかけます。

 写真学校に入る前後から安保闘争が起きて、世の中が騒然としてきました。時代に巻き込まれたんですね。三里塚闘争の写真などを撮りに行くようになりました。現場に行くと、国家や権力が、自分たちに逆らう人たち、弱い立場の人たちをゴミのように扱っていた。その様子を見て、「私たちはゴミじゃない」ということをきちんと記録として残しておかないといけないと思いました。視線が反権力の方に向かいました。

――日大全共闘にシンパシーを持っていました。

 日大は庶民の代表みたいな大学でしたから。東大全共闘はエリートなので興味がなかったし、「自己否定」という考え方もついていけませんでした。学生たちはみんな、素直で純朴で、私としてはカメラをゲバ棒にして、彼らと「共闘」しているつもりでしたね。当時の私は30代半ばで、年齢的に学生たちよりも上。彼らを守ってあげないといけない、という意識もありました。ゴールデン街にお店(最初の店「むささび」)を開いたのも、彼らの居場所を作ってあげよう、と思ったからです。

――お店ではどのように接していたのですか。

 私はお酒を大切にする人なので、学生たちにはお酒の飲み方や、「人を批判するときもそんな言い方をしちゃいけないよ」と議論の仕方も教えました。店には学生たちの様子を偵察するため、公安関係者も来ていました。彼らは1、2杯ひっかけて帰っていましたね。長居して議論でも吹っかけられたりしたら面倒だったのでしょう。

ゲリラにならず、アマゾンへ

――40代半ばでブラジルに移住します。アマゾンで10年近く暮らしました。

 学生運動も終わり、いろいろあって、1年間、スペインを旅行しました。パレスチナに渡ってゲリラになろうかと考えたこともあったけど、やっぱり、人を殺すテロいう考え方には共感できませんでした。ブラジルに行ったのは、リオのカーニバルが出てくる映画『黒いオルフェ』を見たから。単純な理由ですね(笑)。人から「変わった人生を送っていますね」と言われることもありますが、自分には変わった人生を送ってきたという意識はありません。面白いと思うことをしてきただけです。

――写真集の話に戻ります。顔写真を見て、昔の人たちの顔はいまの人たちの顔と違う印象を受けました。

 そうですね、あの頃は、みんな、もっと濃い顔をしていましたね。私が子どもの頃、大人はしっかりした顔をしていました。いまの若い人たちのように「とりあえず優しい」みたいな顔をしている人はいません。100年後、人々の顔はどうなっているんでしょうか、見てみたいですね。さすがに無理ですが(笑)。

――掲載されている方の多くが鬼籍に入っています。

 3分の1くらい亡くなっていますね。早死にした人もいます。私たちの時代は飲み方が違っていました。とにかく飲んだ。あんなふうに浴びるように飲んでいたら、病気にもなります。でも、飲んでしまう気持ちもわからなくはないですね。あの頃はみんな、気を張って飲んでいました。

――編集をしていて、あらためて思うことはありましたか?

 夢中で生きてきましたから、当時のことは全部覚えています。昔を思い出すというより、いろいろな出来事が今日のことのように思えました。あの時代に会って仲良くした人とは、何十年ぶりにばったり会うこともありますが、昔のまま、なにも変わりません。「このあいだ会ったときの話の続きだけど……」みたいな感じで、ふつうに話をします。

――これからもこの街で写真を撮り続けますか?

 いいえ。東京オリンピックを見届けたら、出て行こうと思います。これも時代の流れ。しかたないけど、いまのゴールデン街は魅力がありません。外国人や若い人たちがうろうろしていて観光地みたいです。こういう街は私に合っていません。

――次はどこへ?

 まだ決めていませんが、暖かい土地がいいですね。アマゾンでの暮らしが長かったので、身体が暖かい気候に慣れているんです。子どもの頃、北海道に住んでいて、一番嫌いな季節が秋でした。だんだん寒くなっていくのがいやでしたね。それから長い冬が来て、春、氷が溶けて、地面に土が見えてくるとうれしくなりました。

(取材を終えて)
 「バーカウンターは人生の勉強机である」とある作家は言ったが、酒場は酒を飲みに行くところであり、酒を飲みに行くところではないのだろう。「こうするとおいしいのよ」と言って、佐々木さんが出してくれたのはウォッカ、ズブロッカのお湯割り。アルコールの強い液体から、ぷうんと柔らかな香りが立った。