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サリンジャーの見事な人生 映画「ライ麦畑の反逆児」、都甲幸治さん評

映画「ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー」から © 2016 REBEL MOVIE, LLC. ALL RIGHTS RESERVED.

 僕らはホールデンについてよく知っている。『ライ麦畑でつかまえて』の中で、高校を退学になり、クリスマス休暇にたった一人、ニューヨークの街をほっつき回る彼の悲しみや淋しさは、読んで何年経っても心の片隅に残り続ける。

 だけど、彼を生み出したJ・D・サリンジャーについてはよく知らない。単に昔の人だから、ではない。1919年生まれの彼は、2010年に亡くなるまで、ほとんど一世紀近い時間を生き抜いてきたのだから。そして10年前まで生きていた人を、僕らは普通、昔の人とは呼ばない。

 実は彼の人生に対する僕らの無知は、サリンジャー本人の手で故意に作られたものだ。写真を公開しない。マスコミの取材を受けない。公的な場所には出ない。それだけではない。1965年に「ハプワース16、1924年」を発表して以来、作品の出版すら止めてしまった。

 謎の作家という彼のあり方のせいで、サリンジャーは極端なまでの有名人となった。『ライ麦畑でつかまえて』だけで6500万部を世界で売り上げたことだけでも、もはや伝説的な存在といっていい。だがなぜ彼がそんな人生を選んだのか。

 情況が変ってきたのは2000年代に入ってからだ。様々な資料を使った伝記がようやく出版され始め、彼の人生の細部までが明らかになってきた。なかでも決定的なのが、2010年にケネス・スラウェンスキーが書いた『サリンジャー 生涯91年の真実』(晶文社)である。

 父親の無理解に苦しみながら作家を志し、後にチャーリー・チャップリンと結婚することになる女性、ウーナ・オニールとの恋に破れる。軍人としてノルマンディー上陸作戦に参加し、ナチスと闘い、数々の激戦地を巡り、ユダヤ人の強制収容所の開放にも立ち会いながら、戦場で『ライ麦畑でつかまえて』の草稿を書き続ける。帰国して一躍有名作家になるも、戦争による心の傷に悩み、やがて隠遁生活を選ぶ。

映画「ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー」から © 2016 REBEL MOVIE, LLC. ALL RIGHTS RESERVED.

 サリンジャー本人について知る上で、スラウェンスキーの伝記は画期的だ。そしてこの本にもとづいて作られた映画「ライ麦畑の反逆児」は、正確な事実を踏まえながら、彼や周囲の人々の生きざまを、きちんと内側から捉えて再現している。だから、戦争によって一度、心が毀れてしまった彼が、文学やインド思想との出会いによって、どう生き延びようとしたのかを観客は体感できる。

 僕が魅せられたのは、編集者ウィット・バーネットとサリンジャーの関係だ。精肉やチーズの業界で大立者だった父親に何をしても否定され続けて育ったサリンジャーは、何度も学校を退学になる。だが、コロンビア大学の創作講座で講師であるバーネットと出会い、彼は生まれ変わる。

 反抗的なサリンジャーの才能をバーネットはきちんと褒めながらも、足りない点をしっかりと指摘する。自分が主宰している雑誌「ストーリー」にデビュー作の掲載を決めても、すぐには彼に伝えない。早すぎる成功は、本気で作家になりたいという気持ちを弱めてしまうと知っているからだ。

 教師としてのバーネットは熱狂的でユーモアがあり、自分の弱さを曝け出しながら時に厳格になる。そして彼の文学への、そして学生であるサリンジャーの姿勢は常に真っ直ぐだ。バーネットを演じるケビン・スペイシーの演技はとても説得力がある。

 そしてサリンジャーは少しずつ彼を、指導者として、そして在るべき父親として受け入れていく。バーネットの本気に、サリンジャーの本気が共振する。反抗という仮面の裏から、心底信じられる相手との本当の関係を見つけたい、という気持ちが現われる。

映画「ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー」から © 2016 REBEL MOVIE, LLC. ALL RIGHTS RESERVED.

 サリンジャー役のニコラス・ホルトも良い。ニューヨークという都会で育ち、洗練されながらもその奥に限りないナイーブさを隠す青年を好演している。彼のしゃべり方や身のこなしを見ても、とてもイギリス人とは信じられない。とにかく、自分の才能の巨大さに苦しむアメリカの青年にしか見えないのだ。

 1950年代において、サリンジャーという存在がいかに新しかったかも、映画を見るとよくわかる。短編は掲載を断られ続け、長編『ライ麦畑でつかまえて』すら何社にも断られる。当時の編集者たちには、きれいごとでない愛や苦しみを描く作品がどうにも理解できなかったらしい。

 苛烈な戦争体験をくぐり抜けて形作られた、心をむき出しにするようなサリンジャーの作品は時代を変えた。『ライ麦畑でつかまえて』が先導するように、続いてジャック・ケルアックやウィリアム・バロウズと言ったビートの作家たちが生まれ、アメリカの現代文学にまでその影響は及ぶ。

 しかしながら、サリンジャーの作品が現代において十分に理解されているかはいまだ疑問だ。確かに、作家としてのサリンジャーを形作ったのはバーネットである。けれども、たくさんの戦友たち、そしてPTSDで苦しむ彼に心の平安を教えた禅やインド思想の導師たちの影響が彼をどう変えたかについて、解明が進んでいるとは思えない。

 確かに、ある特定の思想に行きついてしまえば、もう文学とは言えないかもしれない。なぜなら、文学は答えではなく、常に問いを続ける過程だからだ。けれども、良く生きることを自分に課したサリンジャー本人にとって、自分が書くものが文学かどうかなど、もはや問題ではなかったのではないか。

 サリンジャーの生涯を描いたこの映画は、こんなふうにしか生きられなかった人生を、不器用に生ききった彼にきちんと寄り添っている。だから作品を見終わった僕らは思わず、見事な人生だった、と呟くしかない。

映画「ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー」から © 2016 REBEL MOVIE, LLC. ALL RIGHTS RESERVED.