おいおい、吉野源三郎のつぎは渋沢栄一なのか?
昨年の秋、突如書店の店頭に平積みになったこの本をみて、『君たちはどう生きるか』に続く、名著リバイバル商法の二匹目のどじょうかと怪しんだ人もいる。だがこれは早とちり。
同じ頃、根尾昂(あきら)選手がドラフト第一位で中日に入団が決まる。この甲子園のヒーローが読んでいた本として話題になったことが、売れ行きに火がついた理由だという。なるほど、手元の文庫本の帯には「10万部突破 ドラフト会議で注目! 新世代ルーキーの愛読書」とある。
しかし、思えば高校球児もバカにされたものではないか。たまさか本を読んでいるというだけでこの騒ぎになるのだから。
そこでまず知りたくなるのが、根尾選手がこの本を「愛読」したわけである。渋沢といえば、わが国実業界の父で、明治人の典型の一つ。そんな人物のどこに選手はひかれたのか。
ところが、調べてみると、本書を選んだのはどうも本人ではないらしい。医師をしている父親が専属の読書コーチで、息子の読むべき本を一度に二十冊ずつ送っていたのだという。
となると、この聴診器をぶらさげた星一徹ともいうべき父上の一存で、平積みが渋沢栄一ではなくて岩崎弥太郎になった可能性もある。もし『福翁自伝』や『氷川清話』や『蹇蹇(けんけん)録』になっていたら? 出版各社の暮れのボーナスランキングにも変動があったかもしれない。
野球も学業もトップ。さらに読書もするというので、根尾選手についた陳腐な枕詞(まくらことば)が「文武両道」。両立困難な二者の合一をめざす、という方向性では渋沢栄一ともあい通じている。
論語ファンの渋沢の場合はそれが「和魂漢才」で、その基礎に立った「士魂商才」を実業上の理想とする。しかし、根尾選手のようにはなかなかいかないようで、〈日本魂(やまとだましい)、武士道をもって誇りとするわが国の商工業者に、道義的観念の乏しい〉ことを本書でもしきりに嘆いている。
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角川ソフィア文庫・821円=27刷10万部。08年刊行。根尾選手効果で昨秋以降、1万部以上を増刷した。平易に読める『現代語訳 論語と算盤』(ちくま新書)も18万部に達した。=朝日新聞2019年3月2日掲載
