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旅立ち 雄々しい一歩でないとしても

東京・千鳥ケ淵の桜=2019年3月

 我々が桜という花をこよなく愛するのは、その華やかさや散り際の潔さに心惹(ひ)かれるから、だけでは決してないと思う。
 桜の蕾(つぼみ)が綻(ほころ)び、開き、満開になる。散って、花弁が風に舞う。桜としては自然の理(ことわり)どおりに生きているだけなのだろうが、人はそこに人の生を彩るドラマを見てしまうから……ではないだろうか。むろん、誰もがみな明日に向かって、雄々しく足を踏み出せるわけではない。人が生きているその数だけの別れも旅立ちもある。そう、一つとして同じものはない。

虐待から逃れて

 『日本一醜い親への手紙 そんな親なら捨てちゃえば?』。長いタイトルのこの作品は、物語ではない。帯の惹句(じゃっく)を借りれば、「親からの虐待を生き延びたサバイバーたちが書いた訣別(けつべつ)と希望と勇気の100通」の本だ。親と呼ばれる大人が我が子を虐げ、痛めつける。命さえ奪う。子どもたちが犠牲になる事件が相次ぎ、政治もマスコミもわたしたちの関心もやっと“虐待”の二文字に向き始めはしたけれど、遥(はる)か昔から子どもたちは苦しんでいた。わたしたちはそれを知らなかったのではなく、知らないふりをしてきただけだ。その証(あかし)の一冊だと思う。子どもたちは、親から旅立つことで、親を捨て、忘れ、消してしまうことで何とか生き延びてきた。こういう別れもある。こういう旅立ちもある。それはまた、わたしたちが頑(かたく)なに抱え続けている“子は親に感謝するもの”“どんな親でも子には必要”“親ほどありがたいものはない”などの思い込みから旅立つことでもある。旅立たねば、子どもの意思と人権と命を守る視点を獲得することなどできない、と思う。

若い葛藤や焦燥

 森絵都の『この女』は、人にとっての別れと旅立ち、そして、再生を問いかける。森の作品はどれもみな寡黙だ。声は低く、穏やかで、油断していると聞き逃してしまう。大声で何かを押し付けることも、こぶしを振り上げ力説することも、派手で衝撃的なフレーズをぶつけてくることもない。だから染みてくる。読んだ者の上をさらさら流れるのではなく、じっくりと染み込んでくるのだ。『この女』は、一人の青年が一人の女と出逢(であ)い、その身の上を小説化していく過程をしるした物語……と書けば、いかにも安易で単純に思える。けれど、安易で単純な物語が染みるわけがないし、森が生み出すわけもない。舞台は大阪の釜ケ崎と震災前夜の神戸。全て読み終えて、再びプロローグに戻ったとき、森の仕掛けた物語の罠(わな)、その巧妙さと深さと見事さに唸(うな)るはずだ。人の再生、過去からの旅立ちがあまりにも静かに鮮やかに存在している。
 静かという意味では、八束澄子も静かな作家だ。森同様、物語の中で声高に、我が意を語ることはない。そこに描かれるのは、あくまで物語を生きる少年や少女、彼ら彼女たちの周りに生きる大人たちだ。ほとんどが“名も無き人々”と称される者たち。つまり、わたしたちに繫(つな)がるあの人であり、この人だ。
 『明日につづくリズム』は、作者の故郷でもある因島を舞台に、千波(ちなみ)と恵(めぐ)という二人の少女の日々を追った物語だ。因島出身の人気バンドポルノグラフィティの名はいたるところに出てくるし、彼らの歌が少女たちの励みとも支えともなってはいるけれど、八束の筆が追うのはあくまで島の少女たちだ。島を出たい。新しい世界に飛びたい。このままでは嫌だ。千波の恵の、若い葛藤や焦燥が胸を打つ。紛(まが)い物ではないからだ。八束が本気で摑(つか)んだ、摑もうとした青春の姿だからだ。千波が高校受験に向かう場面、その旅立ちと彼女が別れてきたものにそっと寄り添いたくなる。=朝日新聞2019年4月6日掲載