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沖縄の若者たちの「地元」、先入観なく見続けた10年の成果 打越正行さん「ヤンキーと地元」

文:太田明日香 写真:坂下丈太郎

 打越さんは大学院生のときに出会った“彼ら”を10年に渡って調査した。出会いは学生時代にまで遡る。広島出身の打越さんは数学の先生になるつもりで琉球大学に進学。学生のときにたまたま大学の駐輪場で、地元の少年たちが酒盛りをしながら同級生に高校を辞めないよう説得している場面に出くわした。それまでは学校が楽しくて、行くのは当たり前だと思っていた打越さんは、そのとき初めて「学校は一部の人のために作られた場所で、自分は無知だった」と思い知り、「あの子たちの話をちゃんと聞きたい」と、大学院で社会学を専攻するようになる。修士課程では広島の暴走族の調査研究をし、「沖縄の暴走族の調査をしたら絶対重要な研究になる」と直感的に思い、博士課程では沖縄の暴走族について調査を始める。

パシリになり、若者たちの中へ

 調査の最初は、年もちがう内地出身の大学院生ということでなかなか信用してもらえなかった。そこで打越さんは、パシリになるという方法で仲間に入れてもらった。調査をしたい集団の一員になって調べる手法は、社会学や人類学では参与観察と呼ばれる。打越さんは暴走族の下っ端としてカラオケで先輩の好きな曲を入れサビ以外を歌って盛り上げ、キャバクラでは先輩の好みの濃さの泡盛を作ったり下ネタで会話を盛り上げたりしながら、少年たちと一緒に時間を過ごすうちに信頼されていく。中学時代、荒れた学校でいじめられないためにパシリになっていた経験が活かされた。少年たちと信頼関係ができると、普段の姿を知りたいと彼らが働く建設現場でも一緒に働かせてもらうようになる。

 そこで知ったのは「地元」の過酷さだった。多くが中卒で同じ学校の先輩、後輩つながりの中で仕事を得る。そのつながりは仕事だけにとどまらず、仕事が終わったあとの賭け事やキャバクラといった余暇、休日に飲みにいく先輩の送迎といったプライベートにまで及ぶ。仕事中の先輩からの暴力は日常的で、賭け事ではお金を取られたりもする。仕事と家が地元がらみのためそこから抜けることはなかなかできない。さらに、以前は20代のうちに卒業できたパシリも、最近では少子化や沖縄の建設業が好調で後輩が定着しないこともあり、30代になってもパシリのままという状況が固定されつつある。

予想外の調査結果にとまどう

 こうした調査結果は、彼らの地元を「沖縄の共同体が生んだ相互扶助的なもう一つのコミュニティのあり方」と捉えていた打越さんにとっては、まったく予想外だった。
 先輩たちが暴力をふるう背景には、沖縄の最低賃金が安いことや、沖縄の建設業が三次下請けで安定しないことが関係するという。特に打越さんが調査をした型枠解体業の場合はキャリアアップが難しく、すぐに後輩に仕事の能力も給料も追いつかれてしまう。キャバクラでも後輩の方が若くてモテるようになる。すると、だんだん年齢でしか先輩であることの威厳を示せなくなるため、「オレとお前は違うんだ」と過度に暴力で力関係を示すようになる。

 また、後輩がそれでも地元に留まる理由をこう説明する。

 「彼らは家族の中で居場所がなくて、父ちゃんや母ちゃんがいなかったとか、じいちゃんや親戚に殴られながら育てられた子が多い。学校に行ってもなじめないし、隣近所との関係もあってないようなものなので、十代の頃に行く場所はほぼなかったんです。そういう何もないところからつくった場所が彼らの地元なんです。4、5年かけて仕事や先輩のあしらい方を覚えて殴られないようになる。しんどいけど、そうやって自分で時間をかけてやっと辿り着いた場所を、そう簡単にはぬけられないなって思ったんです」

 打越さんは調査データを何度も読み直したり、沖縄の建設業に関する統計データを見直しながら、このような「後輩を殴ったり無理矢理こきつかったりみたいな世界が当たり前になる過程や背景」を浮かび上がらせていった。

 「書くときにいくつかこうならないようにと意識したことがあります。潜入ものにはしない、読者に対してこれ知らなかっただろと啓蒙するようなものにしない、あと、こんな境遇なのに協力してしたたかに生きていると過度にロマンチックに書くことはしないようにしようと決めました。読んだ後に彼らと読者の距離がちぢまるものを書きたかった」

 意外なことに、パシリになる調査よりも論文にしたり本にまとめたりする方が苦労したそうだ。「俗な言い方ですけど、人間を書きたかったんです」と言う通り、58号線で出会った彼・彼女らの10年分の人生が描かれている。

「なんにもわかってなかったな」過酷な10年間

 ところで、この10年間に渡る調査は打越さんにとっても過酷なものだったのではないだろうか。あとがきにはパートナーから「私たちの生活が犠牲になって、やっと形になったことを明記するよう」と言われたとある。特に現在、文系の博士号取得者は研究費の獲得や就職が難しいと言われている。打越さん自身も広島にある民間の特定非営利活動法人「社会理論・動態研究所」に所属しながら、親に借金をしたり非常勤講師や教員を続けたりしながら研究を続けてきた。これはそういう状況を反映し、クラウドファンディングにより、執筆時間を確保するための生活費を集めて作られた異色の本でもある。

 取材の中で出てきた、このエピソードが忘れられない。雨が降って仕事がなくなった翌日、打越さんが「昨日雨が降って休みでよかったですね」ともらしたところ「オレは昨日何も食べるものがなかった」と返され、「俺はなんにもわかってなかったな」と自分が恥ずかしくなったそうだ。この本には書かれていなくてもそうした場面が数えきれないくらいあったのだろう。研究や取材の心構えとして、「常識を疑え」「先入観を持つな」と言われる。この本を読むとほんとうにそうすることとはどういうことなのだろうかと問われているように思う。何かを知って書くというのは自分の無知を自覚し、そんな状況がどうして起こるのか考え、調べることの積み重ねなのかもしれない。この本にはそのような、わかった気にならないで知ること、書くことを積み重ねた打越さんの10年間の試行錯誤も詰まっている。