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待機するより水を飲む 津村記久子

 二週間ほど前から、起床したら早め、遅くとも三十分以内には仕事を開始する生活を始めた。それまでは、決まった時刻まではのろのろごはんを食べたり、仕事用のお茶とおやつの用意をしたり、ちょっとドラマの録画を見たりしていたのだが、その過程を省略していきなり文章を書き始めるようにした。わたしの中には「文章を書く係」とか「食事を作る係」とか「買い物に行く係」などがいて、分業で自分を支えているのだが、もっとも始動にコストがかかる「文章を書く係」の「ちょっと休まないと仕事できない。ねーお茶とおやつは?」を、ある日、うるさい、おまえは水でも飲んでおけ、とあしらうことにした。「BGVは? BGMは?」みたいな注文も無視して、馴染(なじ)みのない将棋の番組にチャンネルを合わせ、音を消して流した。そしてキッチンタイマーをセットすると、「文章を書く係」は仕方なく仕事を始め、三時間以内にノルマを終わらせたのだった。

 「お茶とおやつは?」をいちいち聞き入れていた身としては衝撃だった。おまえ、水と将棋で仕事できるんじゃないかよ。仕事後の自由な時間が増えたその日は、しばらくできていなかった夕飯の自炊もできた。それからは、お茶を一杯分を残して就寝し、仕事をしながら食べられる総菜パンを前日に用意して、「文章を書く係」に仕事をさせている。

 先日、主婦の友人と「何もしない時間は驚くほど早く過ぎる」という話をした。確かに、仕事を始めるまでのこまごました助走の時間は、内容が薄いわりに過ぎるのが早くて焦りばかりが募っていた。

 仕事中に目にした将棋の番組では、詰め将棋の大会をおそらく普段着で訪れていた、リラックスした様子の藤井聡太七段を見かけた。「何もしていない、これから何かしないといけない」待機の時間にニュースで見る藤井さんよりも身近に感じて好感を持った。良いシンボルもできたし、しばらくは「文章を書く係」の接待は控えることにする。=朝日新聞2019年6月5日掲載