「ちはやふるの世界~末次由紀原画展~」の展示の随所には作者・末次由紀の手書きのメモが添えられている。「41巻はとうとう叶った綾瀬姉妹のカラー‼ 」「こんなところは人様に見せるべきものじゃないのですが、今回の原画展に来て下さった皆さまにだけ…。ナイショですよ…」。末次の人柄ゆえだろうか、そこには作者とファンの親密な空気が流れる。応えるファンもまた優しく、そして熱烈だ。出口に貼られた感想の付箋はもはや数えられないほどの膨大な量になった。
ここあわら市は、主要な登場人物の1人である綿谷新が住む街である。決してアクセスの良い場所とは言えないが、それでも多くの人が訪れるのは、いったいなぜだろうか? 『ちはやふる』という稀代の大傑作の魅力に迫るべく、末次由紀に話を聞いた。
『ちはやふる』とあわら市の幸せな関係
──あわら市には新の家があるという設定です。千早と太一は京王線の分倍河原駅を利用していますし、『ちはやふる』では実在する街を積極的に登場させています。
ほんとは私、作品に出てくる地名は架空のもののほうがよいと思っていたんです。迷惑をかけたくはないし、実在の地名を出すことで余計な意味づけがなされて、物語の本筋を邪魔してしまうのがいやだったんですね。
──方針転換にはなにかきっかけがあったのですか?
〝場所〟がこの作品を好きになってもらえるきっかけになっているんです。連載を始める前に、府中のかるた会や、当時の担当編集さんのご実家がある縁であわら市のかるた会を取材させていただいたとき、取材をすればするほど、そのかるた会の、その土地の言葉をしゃべる人たちのその様子を、そのまま使わせてもらったほうがリアリティが出るのではないかと感じました。そこで今回は地名をちゃんと出すということを許される範囲内でやっていったら、各地のみなさんが「自分の街が出ている!」「自分のところが聖地だ」と喜んでくださったんですね。
──『ちはやふる』のファンは聖地巡礼にも積極的ですよね。
そこに行ったら『ちはやふる』の空気を感じられるんじゃないかと思ってくれたファンのみんなが、実際の駅とか、街とかへ行って、マンガの中の彼らがほんとにそこを歩いてるような気持ちになってくれる。多角的に作品を楽しんでもらえるきっかけになったかなと思います。
──作品にアクセスするチャンネルが増えたわけですね。
マンガを買う、マンガを読む、ということ以上のことをしたいという方がいてくださるので、そういう人たちの熱い情熱が行き場を見つけたんじゃないでしょうか。
──原画展に行ってついついクリアファイルを買っちゃう的な……(笑)。
特にクリアファイルがほしいわけではないけど、買わずにはいられない。ファンのみんなが、なんかこう、「プラスのなにかを与えたい!」みたいな気持ちになってくださってるのかな、って。
『ちはやふる』は表情で見せるマンガ
──原画展では膨大な数の絵が展示されていてものすごい見応えでした。アナログとデジタルを併用なさっているのですね。
20巻の装画で1度だけフルデジタルで描いたことがあります。周防さんと詩暢ちゃんのものです。でもそのあたりから「原画展をやるかもしれない……」というような話が出てきて(笑)、じゃあ原画は必要だと思って、フルデジタルはいったんやめました。不思議なタイミングでしたね。世の中はデジタル化が進んでいて、自分もちゃんと勉強するべきだろうなと思うタイミングでもあったんですけど、逆に原画が貴重になると感じる時期でもあったんです。
──カラーの美しさはもちろんですが、ネームの丁寧さに驚愕しました。
私、想像力がないので、自分で描かないとわからないんですね。めっちゃ悲しい顔とか、すごく入れ込んでる顔とか、その必死さを担当編集さんにわかってもらわないといけないじゃないですか。それを描かずに伝えることはできないんです。私はこの絵でこういう気持ちだと説得したいのに、説得材料もなしに「この話はおもしろいんですよ!」とは言えない。ちゃんとここで、最初の読者である編集さんに感動してもらいたいんです。いっしょに笑ってもらいたいし、世にも恐ろしい千早の顔を描いたときは、「えっ、これで行くんですか!?」って言ってもらいたい。伝わる絵を描きたいんです。
──『ちはやふる』は表情で見せるマンガですね。
そうですね。特にかるた中は話せないので。
憧れの少女マンガ家はあさぎり夕先生と本田恵子先生
──単行本のカバーの絵は人物と花の組み合わせです。このコンセプトはどういう発想から?
なんででしょうね、少女マンガだから華やかにしたかったのかな(笑)。巻ごとにテーマカラーを作って、わかりやすい差を出したかったんですね。でもシリーズ感は欲しい、というところで花縛りで行ってみようと思ったら、突然魚が入ってきたりもするんですけど(笑)。
──稲とか(笑)。
野菜とか(笑)。意外と自由ですね。
──先ほど「少女マンガ」とおっしゃいましたが、末次先生の少女マンガのルーツはどのあたりにありますか?
「なかよし」で描かれていたあさぎり夕先生を読んで育ってきました。ものすごく憧れていたのは本田恵子先生の絵。より美しくなるための自分の好きな方向性が本田恵子先生の絵だったんです。
──作風的にも影響はありますか?
内容はどうなんでしょう? 『ちはやふる』は少年マンガ的なパッションの要素が強いので、少女マンガにはなりきれていませんね。
まさかの肉まんくんが…
──たしかに『ちはやふる』は少女マンガとしては恋愛要素が希薄です。
恋愛は難しいですね。スポ根要素と同時に描くことが難しいんです。いっそ描かないようにしようと(笑)。少女マンガ的にはときどきしか盛り上がりません。
──この作品における恋愛要素をどのように位置づけていますか?
千早の気持ちになって考えると、恋愛なんて二の次じゃないですか。「なぜ答えを出さなければいけないの? 今それ考えたくないんだけど……」って思ってる主人公をそのまま描いたらこうなりました(笑)。
──でも周囲が放っておいてはくれません。
「それ私のせいかわからないけどごめん! でもどうしていいかわからないよ」という感じをそのまま描いています。千早からすると、「それに関してはもうちょっと時間をちょうだい」っていうのが正直なところなんですよね。なのでイライラする読者さんもきっといると思うんですけど、でもまあ主人公はそう言ってるんで……。ここで無理して答えを出すのは千早じゃないと思います。
──最終的には回収されるのでしょうか?
したほうがいいですかねえ? 回収……。
──個人的にはしなくてもいいと思いますが、どうなんでしょう(笑)。
18歳くらいのころの恋愛って、最終決定じゃないじゃないですか。10年後はわからないですよね。なにか答えが出たとしても、それは今の気持ちですよ。18歳で運命の人に出会うわけないんです。
──意外なキャラが横からかっさらっていったり……。
ええっ、肉まんくん!?みたいな(笑)。それくらいどっきりしても人生おもしろいですよね。ありですよね。幸せの形なんて他人からはわからないんです。
年表ではなく運命のうねりを描きたい
──この物語が始まったのはまだ北陸新幹線が金沢まで開通していない2007年でした。
あわら市まで来るのも大変でしたねえ……。
──それもいよいよ佳境に入りつつあります。10巻のあとがきで「引き延ばす気など毛頭無い」とお書きになっていましたが、ついに41巻に到達しました。
今もないんですけど(笑)、さすがに41巻は長すぎでしょ、と思えて来ます。読んでくださっているみなさんを、降りられない船に乗せてしまったなあ、と。
──登場人物もかなり増えました。しかしどのキャラクターもひとくせありつつ魅力的です。キャラ作りはどのように考えていらっしゃるのでしょうか?
出会った瞬間にわかるよう、大事なキャラは、たとえば面倒くさいやつは面倒くさいやつと誰もが思うくらいのエピソードを入れるとか、ファッションが変ならもう言わずもがなファッションが変とか、明らかに差をつけておきたいんです。登場人物が多いので混同されないよう、キャラクターがかぶらないように心がけています。美形キャラは実はつまらないんですよね。正統派の美形枠は千早とか太一で十分なので、そこの埋まっていない席を埋めてきたって感じですね。
──実在の人物をモデルにすることはありますか?
私はモデルを作らないタイプなんですけど、原田先生だけは府中白妙会の前田秀彦八段をモデルにしています。こちらが想像するまでもなく、取材してたっぷりとエピソードを頂戴しているので、あっというまに自分の中でキャラクターが立体化されました。モデルがいるってだいぶ楽なことなんだなあって(笑)。でもそんなことは滅多にないので、たいがいは自分で作ります。そのキャラクターと以前から知り合いだったかのように考えるのがすごく大事ですね。どこに住んでいて、なにを食べていて、どんな青春時代を送って……と考えられる範囲で考えて、立体化するようにしています。
──そんなキャラクターたちが出会うことで化学反応を起こし、人がそれぞれに変わって行く様子をポジティブに描いています。
読者は年表を読みたいわけではありません。千早が勝っていくだけの話が読みたいわけではないんです。最終的にはそうなるとしても、この子が誰と出会って、どんな失敗をして、だからこそどうなるのか。端的に言うと、年表じゃなくて運命のうねりを描きたいんですよね。
──言われたからそうするのではなく、人が自ら変わろうとしていく様が感動的です。
やっぱり自分で選んだことじゃないと頑張れないんですよ。太一のお母さんはわりといろいろ決めがちですけど、太一を信用してある程度は放っておいておける人でもあります。その中で、「母親の期待はこっちなんだろうな」っていうのをひしひし感じながら、忖度しそうになる太一もいるんですけど、それでもやっぱり彼は自分で選んでいる。お母さんもギリギリのラインで太一に任せてるのがすごいところだなと思います。太一は、最終的には親の跡を継いで医者になるとしても、決めさせられたというよりは、自分に合っている仕事なんだろう、と自ら選ぶと思うんですよね。そこまで信用できるお母さんもすごいですし、そういうところにもひとつの関係性がありますよね。この物語では、最終的には大人はみんな放っておいているんです。「こういう現実があるよ」と見せてくれたあとで、放っておく。決めつけや強制は誰もしていません。
──放っておく様子を描くのは難しいのでは?
そうですね。なにもしていないので。逆に「あんたはこっちに決まってるじゃない。こっちにしなさいよ」という強制を敢えて描くときは、キャラクターが反発して逆方向に行こうとする様子を描くときですね。
かるたなら性別も年齢も超越できる
──『ちはやふる』は大枠ではスポ根になると思いますが、そこにはかるただからこそ描けることがたくさんあるように思います。その最たるものが性別と年齢の超越です。当初からこの特徴は意識していたのでしょうか?
取材を進めていく中で気づきました。おじいちゃんと女子小学生が対等に戦う競技なんてそうそうないじゃないですか。それは文化と知性を争って、体力で決まることではないからできることなんですよね。それってすごく魅力的なことだと思いませんか? もちろん体も使うんですけど、物理的なスペースは狭いので、一般的なスポーツほどの体力では競わない。みんなが持っているもので戦える。大きなものは必要ない。頭の中にはものすごく大きなものが必要なんですけど、それは小さい子でも戦える部分なので、そこが面白いなあと思いました。
──男女が対等な関係で競う稀有な競技ですね。
女子のほうが強いことがざらにあります。どっちが優位ということはなくて、努力と才能だけの勝負。吹奏楽部とかに近いかもしれないですね。
──河原和音先生の『青空エール』(集英社)が吹奏楽部を描いてますね。
そうですね! あの作品も半ばスポ根の要素がありますね。
──ただし男の子は野球部です。
恋愛はそっちでした。『ちはやふる』は努力パートだけを描いてます(笑)。
──猪熊遥六段はお母さん選手として奮闘します。女性へのエンパワメントとなる要素は意識的に描いているのでしょうか?
そうですね。友人にも「子どもができたらかるたは諦めざるを得ない。やるにしても誰かに負担を強いることになる」と苦しんでる人がいて、でもせっかく大好きで長くやれることがあるのに、そこで引くのは子どもにもよくないように思うんです。その友人も22巻あたりのあのエピソードを読んだときに、「母親に子どもよりも大事なものがあることもあるとわかって、気が楽になった」とすごく気に入ってくれました。
──子どもはそういう親の姿を見ていますよね。
子どもが親にとって唯一の大事なものだと、そのことに苦しむ子もいるんですよね。子どもの幸せだけが親にとって大事なわけじゃなくて、親は別のものもとても大事っていうのが、風通しのいい環境を作るのに大切なことだと思うんです。だから親こそ本当に大事なものは手放しちゃいけないんじゃないでしょうか。それは人の趣味とかをとても大事に思える、他人の気持ちを理解できる親でもあるわけですよね。「あんたのことは誰かに頼むけど、私はかるたしてくるから、ごめんね」って、それで「えーっ」てなっても、あ、そういうもんなんだ」と。好きなものは好きでいていいんだ、って伝えたかったんです。
──そういう姿を女性たちに見せたかった。
女性たちに見せつつ、それを男の人にも許してほしいんです。「なんで俺が子どもを見るの」とか「なんで家事しないの」とか言わないで、応援してほしい。
──幸い『ちはやふる』は男性読者も多いですよね。
サイン会にいらっしゃったのも半分くらいは男性でした。〝萌え〟の要素なんてないのに(笑)、とてもありがたいことですね。
──そういえば『ちはやふる』は父親の存在感が希薄です。
そうなんですよ。本筋に要らないものは描かなくてもいいんじゃないかと思っていたら、お母さんばっかりになっちゃって……。気がついたらみんなが母子家庭みたいになっていました(笑)。「お父さんごめん!」と少しずつ描き始めたのですが、そうしたらみんな素っ頓狂なお父さんになってしまい……。太一のお父さんなんて37巻の回想シーンで「オリゴ糖」って呼ばれてるだけですからね。別に邪魔もしないけど、深く干渉もしないお父さん像になってしまって、申し訳なかったです。
誰かの翼を折らないで欲しい
──さまざまな思いを抱きながら、最終的には「みんながんばれ」としか思えなくなる物語です。
見守ることしかできませんよね。邪魔しないことがいちばんです。
──それが末次先生の願いでもあるのでしょうか?
そうですね。「誰かの翼を折るな」ですね。
──ノーベル平和賞を受賞したマララさんの父親も「マララにどんな特別なことをしたのかと人々に聞かれるが、私は彼女に教育を与え、翼を切らなかっただけだ」とおっしゃっていました。
伸びる子は放っておいても伸びるし、本当にトップを走る人たちは自分で走って行っちゃうんですよ。特別なことはなにもしなくていいから、見守っていてほしい。でもそれは先ほどの太一の母親の話にもつながりますが、信頼がないとできないことなんですよね。
──物語もいよいよクライマックス。1巻の冒頭につながるときが近づいています。
あそこに戻っていく瞬間に近づいていると思うと、プレッシャーがとても大きいです。
──ここに来て千早の姉・千歳の存在がフィーチャーされてきました。
お姉ちゃんの存在がキモなんです。
──新連載の構想は?
考えたりもするんですけど、そうすると『ちはやふる』のほうに心が戻ってこなくなってしまうので、少しずつ育てているところです。
※9月19日に展覧会情報を更新しました