「パラレルワールド」「並行宇宙」という言葉がある。ある世界や時空からは分岐して、それに並行して存在する別の世界や時空のことを指す。専門的なことはわからないが、たとえば、朝起きて、ご飯にするか、パンにするか、玄関を出て、右にいくか、左にいくか、それぞれ別の未来が存在するのかもしれない。あるいは、選択の連続の分だけ無限の宇宙が存在しており、違う宇宙では、違った生き方をしているのかもしれない。だが、僕自身が普段意識しているのは、ひとつの宇宙を生きていることだけだ。こんな考え方は奇妙奇天烈なのだろうか・・・・・・。
30歳を過ぎてから読書を糧とする時間が増えてきた。いろいろな作品を読むようにしているが、ときになんと表現してよいかをじっくり考えさせられる作品にぶつかることがある。そうした一作品として、僕はフランツ・カフカ(1883-1924)の『カフカ短編集』(池内紀編訳・岩波文庫)の冒頭にある「掟の門」を選びたい。カフカの愛読者がいま現在どのくらいいるのかわからないが、「変身」「審判」「城」などの作品は有名で、そして、どれもが極めて奇妙奇天烈な話だから、いつまでたっても出口の見えない迷路をさまよい続けるような感覚に陥る。ただ、カフカの作品のなかで、僕にとって唯一例外を感じさせてくれたのが「掟の門」だ。
掟の門前に門番が立っていた。そこへ田舎から一人の男がやって来て、入れてくれ、と言った。今はだめだ、と門番は言った。男は思案した。今はだめだとしても、あとでならいいのかとたずねた。
「たぶんな。とにかく今はだめだ」
と、門番は答えた。
掟の門はいつもどおり開いたままだった。門番が脇へよったので男は中をのぞきこんだ。これをみて門番は笑った。
「そんなに入りたいのなら、おれにかまわずに入るがいい。しかし言っとくが、おれはこのとおりの力持ちだ。それでもほんの下っぱで、中に入ると部屋ごとに一人ずつ、順ぐりにすごいのがいる。このおれにしても三番目の番人をみただけで、すくみあがってしまうほどだ」
「掟の門」(岩波文庫)より
男は「掟の門」に入ろうとするが、門番に止められて何年も待つ。そしてついに、一歩も踏み込まず、その先を知ることなく人生を終える。カフカらしい終始一貫して哀調ただよい、登場人物も男と門番の二人の僅か数ページの物語を、僕は一体何度読み直したことかわからない。そのうち僕なりに解釈をするようになり、こんなふうに考えてみた。この男は「どこにもいかない人生」を選んだのだろう。そして、「どこにもいかない人生」のために門と門番を自ら設定して作り出し、「どこにもいかない人生」の目的を完遂したのだと。この奇妙な物語にも「パラレルワールド」はあり、門番が存在する人生、存在しない人生、門にとびこまない人生も、門にとびこむ人生もあることだろう。すくなくともそれを選ぶ自由だけは存在していたはずだ。もっとも難しいのはその自由を意識できているかどうかだろう。
いまにして思えば、僕自身が「レミオロメン」というバンドを組むこと、それを休止すること、ソロとして再出発することも、すべてデザインして、そして自由に選べたかと問われたら難しい。選んできたことだけは事実だが、選択の自由を意識として有していなかったかもしれない。ただ、ソロになってからはバンド時代の反動なのか色々なことにトライできた。フットサル、カメラ、登山、それぞれに取り組み、好きになり、多くの学びを頂いた。ありがたいことに、その道で一流の人たちと接することができたのも事実だ。たとえば、カメラなどは、人生のすべてをかけて写真を撮り続けてきたプロカメラマンたちと、向き合い、語り合い、勉強させてもらった。だた、そうしたことに熱中するうちに、僕は彼らとの間にある圧倒的なプロとアマの違いを知り始めたのだ。
同時に、僕自身の本来の軸はなにかをカウンター的に問われていることにも改めて気づいた。少なくともカメラについて、僕の覚悟のリミッターは見えてしまっている。ただ、30代での彼らとの出会いがあり、共に過ごした時間があったからこそ、僕はいま音楽にむけて奮い立っている。こう思えたとき、「掟の門」がこれまでとは形を変えて僕のなかにストンと落ちてきた。そして、40代を目前に、無限のパラレルワールドがある中で、僕が選ぶべき宇宙は見えている。