まさか水墨画をめぐる小説が、これほどまでに心をゆさぶる物語であるとは思いもしなかった。題名をいまいちど確かめてほしい。「僕は、線を描く」のではなく「線は、僕を描く」。主語は水墨画にあるのだ。
大学生の僕、青山霜介(そうすけ)は、巨大な展示場でパネル運びのアルバイトを終えたあと、会場内で小柄な老人と知り合った。何百もの水墨画が掛けられた展覧会場をまわり、老人に感想を聞かれては思いついたことを語っていく。最後、大きく華麗な薔薇(ばら)の絵のところで立ち止まった。僕は驚いた。墨一色で描かれているのに、花が真っ赤に見えたのだ。じつは、老人こそ日本を代表する水墨画家、篠田湖山。彼は僕を弟子にするという。
まったくの素人を主人公にすえたのがじつに効果的だ。読者を同じ目線でその世界の入り口へと導いている。筆や墨など、描くための用具とその扱いから、「蘭(らん)に始まり、蘭に終わる」「四君子(しくんし)」といった技法習得のための教えまで、物語内で具体例とともに紹介されていく。その奥深さを少しずつ知るとともに、戸惑いながらも必死で取り組んでいく「僕」の姿とあわせ、読み手はますます水墨画に興味がわいてくるだろう。
一方で、大学の友人や湖山門下の絵師たちとの無邪気な交流を描いた場面は愉(たの)しく、ライバルであると同時に恋の予感を抱かせる、湖山先生の孫の千瑛(ちあき)との関係はほのかに甘く薫る。青春小説としての明朗な彩りにあふれているのだ。作中「水墨は、墨の濃淡、潤渇、肥痩(ひそう)、階調でもって森羅万象を描き出そうとする試み」とあるが、本作もまた、移り変わる世界や人の多様な姿を鮮やかにとらえている。
両親を失い、空白を抱えていた「僕」は、紙に「線」を引く芸術を一から学び、練習を重ねることで、やがて失っていた自分を取り戻していく。生きている瞬間をとらえようと描き続け、自らの美をつかむ。現代の青春求道小説として、力強く胸に迫る作品だ。
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講談社・1620円=4刷4万5千部。7月刊行。著者は水墨画家。本書でメフィスト賞を受け作家デビュー。週刊少年マガジンで漫画も連載中。「静かな熱さが広がっている」と編集者。=朝日新聞2019年9月28日掲載