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クレイン・文弘樹さんを作った「深沢夏衣作品集」 帰化した在日女性の精神史

 山口文子。筆名・深沢夏衣(ふかさわかい)。帰化在日2世。1970年代を編集者として在日問題を扱う雑誌「季刊まだん」「季刊ちゃんそり」で過ごし、92年に「夜の子供」で小説家デビュー。晩年は「地に舟をこげ 在日女性文学」編集委員。彼女とは、『凍える口 金鶴泳作品集』の刊行を労(ねぎら)っていただいて以来、交流が続いた。

 「夜の子供」は、帰化者心理に触れた特筆すべき作品である。帰化申請に伴う母の日本語能力試験の場面は強く胸を打つ。その母とは、「愛」という言葉を知らない。「恋」という言葉を知らない。「好き」というコトバなら知っているが、それがどんなものか経験したことのない、朝鮮の〈女〉である。

 試験に向けて中学生の娘は、日本語の読めない母にひらがなを一生懸命に教える。そのおかげでようやく読めるようになった母だったが、試験当日、役人が指さす、ある文字だけはどうしても読めない。それは娘が教えていなかった濁音だった。それに気づくと役人は小さく微笑(ほほえ)み、以後、濁音だけを飛ばして指さしていく。その憐憫(れんびん)の表情を隣で見逃さない娘。少女の悲しみと屈辱感。関東大震災時の朝鮮人虐殺への怒りを想(おも)わせもする。「国籍なんて、一度失った人間にとっては大したものではないのよ」。成人した娘は凜(りん)と言う。

 本書は、〈女〉〈在日〉〈帰化者〉を条件に、そう遠くない時代を生きたひとりの人間の精神史でもある。その人と作品を愛した編者と友人がいた。いい作品は必ず誰かが残してくれる。=朝日新聞2022年3月16日掲載