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【谷原店長のオススメ】アラスカの息づかいを感じるエッセー集 星野道夫『旅をする木』

 極北の地アラスカ。厳しくも美しいその大自然のなかを、逞しく生き抜く動物たち。彼らに魅せられた日本人写真家・星野道夫さんのエッセイです。1996年、カムチャツカ取材旅行の際、ヒグマに襲われ43歳で急逝するまで、静謐で温かみのある筆致のエッセイを彼は何冊も遺しました。この本は、そのなかでも僕がとくに心を奪われた1冊です。

 じつは昨年、遺された息子さんを追ったドキュメント番組が放送されて以来、彼の強い眼差しが、ずっと僕の心に強い印象を残していました。星野さんの写真集を手に取ったのは、僕が30歳ぐらいの頃。熊と鮭が向き合った1枚。その圧倒的な偶然の一瞬に息をのみました。

 高校生の頃、アメリカ大陸を冒険した星野さんは、動物写真家の助手を務めたのち、アラスカ大学の野生動物管理学部に入学します。厳冬期にはなんと零下50度にまで下がる、文字通り生と死とが隣り合わせの生活を、彼は妻と共に過ごします。心を動かされたのは、標題の一篇「旅をする木」。動物学の古典を引用する部分です。曰く、北の大地に根を張ったトウヒの木が、ユーコン川を旅し、北極海流に乗って海岸に辿り着いたのち、原野の家にある薪ストーブで燃やされる――。そして、燃え尽きた大気のなかから、その元素が、新しいトウヒへと生まれ変わり、また新たな旅が始まる。ああ、この木こそ、まさに星野さん自身。彼がこの世にいた証。あの息子さんがしっかり根を張り、次世代へと繋いでいく。そんな感慨を覚えました。

 早春、クマと遭遇する章があります。かの地で狩猟を営む者たちが、クマに対し抱く畏怖の念。それを星野さんは淡々と文章に綴ります。僕らのように都会に暮らしていると、つい、「人間とは他者の命を奪い生きる者だ」との自覚を忘れてしまいがち。その生と死を背中合わせで感じ、日々を生きるアラスカのひとの自然や生命への敬意が随所から伝わってきます。

 読み進めながら、ちょっと面白い視点だな、と思うのは、うつろうもの、喪っていくものに対する悲しみは感じるものの、それを引き起こす人間への怒りはあまり感じないところ。これが記された時代と現在のタイムラグはありますが、机上の「自然保護」論に対する、星野さんなりの懐疑の視線を、そこかしこに感じるのです。いつかは失われるものへの達観、諦観。大自然の中でファインダーを通じ、対象物を客観視する写真家だからこそ生まれた、言葉の数々。過去でも未来でもなく、今残されているものへの感謝。彼はこう説きます。「結果が、最初の思惑通りにならなくても、そこで過ごした時間は確実に存在する。そして最後に意味をもつのは、結果ではなく、過ごしてしまった、かけがえのないその時間である」。胸に響きます。

 中盤のエッセイ「生まれもった川」の一節。とある自由な生き方を貫く旧い友人の老夫婦を紹介するくだりで、星野さんは彼らをこう記します。「きわめて個人的な、社会の尺度からは最も離れたところにある人生の成否、その存在」。はたと思い留まり、思わず自問自答してしまいました。自分の人生とは、はたして自分にとって有意義なものだろうか。無意識で自分を抑制して生きていくうちに、抑えてきたものがいつか眼前に現れるのではないか。それが胸の中で弾け、無為に過ごしてきた時間を後悔するのではないか……。

 いま僕は仕事にとても恵まれています。役者として、司会者として。そして、司会としての立場は、とにもかくにも過去約10年間、週末の情報番組の司会の経験を通じて得たものだと思っています。あの番組を通じ、司会技術や人脈など、計り知れないものを得てきました。しかし同時に、あの10年間、僕は舞台を全然できなかった。海外に長期間行くようなオファーを断らざるを得なかった。役者としてあの10年の間に逃したチャンスが有った。それは紛れもない事実です。

 つくづく感じるのは、何かを得るということは、何かを失うのだということ。あの10年があったからこそ続く、この道。Aの道に進むならBの道を諦めるという場面は、過去も、現在も、そして未来も無限に続きます。どちらの選択が正しいのか。いつになったら答えが出るのでしょうか。それは今なのかもしれません。自分が歩んできた道、積み重ねた選択を自分が肯定できなければ、納得できなければ、また未来に向かって足を踏み出すことはできない。星野さんのいう、かけがえのないその時間を過ごしたのですから。

 星野さんは、自分が愛してきた自然によって命を奪われます。ご家族にとって、それはとてつもない悲しみであり、僕のこのような言い方は大変失礼にあたるかも知れませんが、星野さんは、星野さん自身が愛したものによって、自然の連環の輪の中に還っていったのではないか……そんなふうに思うのです。

 アラスカに関わる、さまざまな世代のひとたちがこの本には登場します。我が身の人生をどう描くか。あるいは、どう人生を締め括りたいか。そんな迷った時に道をそっと照らしてくれる、北極星のような言葉が、随所に散りばめられています。

 ぜひ、彼の撮影した『Alaska 極北・生命の地図』(朝日新聞社)と共に読んでください。ツンドラのなかを移動するカリブーたち。エッセイで描かれる圧巻の景色が詰まっています。1章1章を読むたび、この景色はどこかの頁にないかな、と探してみてください。(構成・加賀直樹)