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翻訳家・岸本佐知子さんインタビュー 違う中にも「同じ」が見つかる。言葉の壁越えて繋がる瞬間が海外文学の醍醐味

文:岩本恵美、写真:有村蓮

岸本さんの妄想力の素

――連載「ネにもつタイプ」が18年目に突入とのことで、振り返ってみていかがですか?

 自分でも驚きました。10年くらいはやっている気はしていたんですけど、まさかそんなに長いことやっているとは……。17年間、月末が来るたびに夏休みの宿題が終わらない子供の気分でしたね(笑)。

――これだけの長期連載で、しかも読むたびに「岸本さんの頭の中ってどうなっているんだろう」と思わずにはいられない内容です。毎回エッセイのネタというのはどうやって考えているんでしょうか?

 「ネにもつタイプ」の前にもエッセイを書いていて、エッセイ自体を書き始めて10年くらいは、会社員時代にみんなが言ったりやったりした面白いことや、子供時代のできごとなどを思い出して書いていたんです。だから、最初のうちはわりとストックがあったんですね。でも、会社を辞めて翻訳の仕事をし始めると、家の中で引きこもっていることがほとんど。話す相手がほぼ自分しかいないような状態だと、ネタを「考える」というよりは、自分はただのラジオで、そのアンテナにふとした言葉などが入ってくるのをきっかけに書くということが多いです。たまにしか人と喋らなくなると、だんだん半径1メートルくらいの出来事、それこそ自分の体くらいしか元手がないような状況で、「体のここがときどき勝手にピクピクするよね」みたいなことを書くことが増えましたね。

――『ねにもつタイプ』『なんらかの事情』に続いて、7年ぶりの書籍化となる3巻目の『ひみつのしつもん』ですが、この中で特に印象深い回は?

 「ふるさと」ですかね。自分は横浜の日赤病院で生まれたと信じ込んでいたら、実は寿町産院、ドヤ街の病院生まれだったっていう話を書いたら、母からものすごく抗議されて。あとがきに書いたんですけど、本当は長者町産院だったんですよね。「本には入れないから」と、その時は言ったんですけど、うっかり入れてしまったという……。

――(笑)。寿町も長者町も、めでたいイメージで記憶されていたんでしょうね。いまのところ、お母さんにはバレていないんですか?

 バレました。バレたんだけど「あとがきで訂正したから」と、言いくるめました(笑)。
あと、苦しまずに書けたという意味で気に入っているのは「洗濯日和」。これは経験をそのまま書いて、一気に書けたので。

――物干し竿からドロドロした謎の液体が出てきた話ですね。自分の意識が、「私」と謎の液体と物干し竿との3つに分かれて、それぞれの気持ちで語り出す。

……斜めに落ちた物干し竿の私は深く恥じていた。 ああなんてこと。自分の中からこんなものが出てきたなんて。こんな茶色くて汚くてドロドロしたものを身内に隠していたなんて。銀色メタルの直線の硬質の輝くボディのこの私が。あああ恥ずかしい。死んでしまいたい。(『ひみつのしつもん』「洗濯日和」より)

岸本さんは日常の出来事や身の回りのものを面白い視点で捉えて、そこからの思考の広がりがすごいですよね。昔から妄想好きだったんでしょうか?

 自分ではそんなに妄想しているつもりはないんです。考えのレールがちょっと変な方向に行くだけで、あんまり“妄想”と思ったことはない。でも、実はみんなも変なことって、絶対考えていると思うんですよ。その証拠に、エッセイを出すたびに「同じこと考えてた!」という感想をよくいただくんです。

 ただ、きっとみんなは考えても10秒くらいでやめるとか、すぐに忘れるとかしているんだと思います。私はその辺のストッパーがないので、変な考えをずっと考えて最後まで考えてしまうんですね。人類全員がそういう変なことばっかり考えていると種として滅びてしまうので、私みたいな人間は人口の何パーセントかいればちょうどいい。みんなが考えるアホ思考を、私が“外付けのアホ脳”として代わりに考えている、ということでどうでしょう。

――働きアリの法則みたいです(笑)。岸本さんが妄想力を掻き立てられるような作家さんはいますか?

 妄想というか、自分の上をいく思考回路の作家さんはいますよね。やっぱりそういう人を尊敬するし、翻訳したい。ミランダ・ジュライやリディア・デイヴィスなど、一見すごくパワフルで社会的にも勝ち組に見える人なのに、けっこうしょうもないことをちまちま考えていて、親近感がわきます。たぶん、自分自身の脳内に住んでいるような人が好きなんでしょうね。

岩波フェチの父が引き合わせてくれた名訳の数々

――そもそも岸本さんと海外文学との出会いは何だったんでしょうか?

 幼稚園のころに父親が『クマのプーさん』(岩波書店)を読み聞かせしてくれたのが最初ですね。父は岩波フェチで、いまにして思うと買い与えられた絵本もすべて岩波のものだったんですよ。わりと最近読み直してみたんですが、石井桃子さんの翻訳がとてつもない名訳なんです。まず、『クマのプーさん』の「プーさん」っていうのがすでにすごい。原書のタイトルは“Winnie-the-Pooh”なので、「さん」なんてどこにもついてないんですけど、プーさんの「さん」は「寅さん」や「おいなりさん」「お豆さん」の「さん」であって、「山田さん」の「さん」ではないんですよ。「プーさん」としたことで、愛くるしくてちょっと抜けているけれど憎めない、あのキャラが一瞬のうちにできあがっているんですよね。

 それと、人生で何度も読み返しているのは、ルナアルの『にんじん』(岩波文庫)です。小学校低学年のころに父の本棚で見つけて、タイトルが平仮名だから読めるだろうと思ったら、旧仮名遣いで漢字だらけ。大人に聞くなどして、自分でふりがなを振って書き込んでいたんですけど、途中から大人にうるさいって言われたか、自分が面倒くさくなったのか、当てずっぽうで間違ったふりがなを振っています。

――それは立派な妄想ですね(笑)。

 だから、お話もこんな感じかなって半分くらい想像するしかなくて。舞台はフランスだし、100年以上前の話なので風俗が現代とは全然違う。子供でもぶどう酒を飲むとか、頭にシラミがわくとか。自分とまったくかけ離れた世界なんだけれど、ものすごく引きつけられたのは、岸田国士さんの翻訳が素晴らしかったからということがあります。わからないながらに、言葉のリズムのよさや陰影、奥深さがすごいというのが子供にもわかったんだと思います。

海外文学を読んで「同じ」って思えることが面白い

――海外文学を好きな人は大好きですが、一方でとっつきにくい、手にしづらいという人もいます。岸本さんが考える、海外文学の魅力ってなんでしょう? 

 いまいる世界とは別のところの話であるという“遠さ”が憧れになるか、逆に障壁になるか。その違いですね。

 でも、私は海外文学の“遠さ”が好きというよりは、「あ、同じなんだ」って思えるところが魅力なんだと思っています。もちろん、国や地域によって生活の習慣や社会とか、いろいろ違うところも面白いんですけど、言葉の壁を越えて繋がる瞬間があるのがいいんですよね。

 以前翻訳したニコルソン・ベイカーの『中二階』(白水Uブックス)は、まさに「同じじゃん!」の連続。アメリカのとある会社員の昼休みを軸に描いた話で、オフィスにまつわるいろんなこまごまとしたことを主人公が語るんです。ホチキスは机の上に出しておくとよっぽど気をつけないと絶対なくなるとか、ほうきで掃いてちりとりをずらした時にできる埃の線が限りなくゼロに近くなっていくのが好きだとか。アメリカ人でもこんなに細かいことを考えている人がいるんだなっていうのが衝撃でした。いろんな違いがあるなかでも、「同じこと考えている」って思えることが翻訳物の醍醐味なんじゃないかなって思います。

本は見た目も大事

――岸本さんは、普段どんな時に本を読まれますか?

 それが本当にいまの悩みで、昔だったら通勤などで電車に乗っている時やちょっとした隙間時間、寝る前などに読んでいたんですけど、いまは電車にもほとんど乗らないし、寝る前に読もうとすると3秒で寝てしまうんです(笑)。

 それと、昔から積読は多いんですが、積読も読書だと思うんですよね。背表紙だけ見えている状態でも、それがサムネイルというか、窓みたいなもので、「この中に何か面白いことが書かれている」「この先に面白い世界が広がっている」ということを、毎日背表紙を見ているだけでも考えますよね。それも絶対、ひとつの読書だと思うんです。

――背表紙といえば、本のジャケ買いをけっこうするとお聞きしました。

 英語の原書を選ぶときは、ほぼジャケ買いです。とにかく装丁がいいと無条件で買ってしまいます。私が好きで訳しているリディア・デイヴィスも、実は表紙の装画が大好きなルネ・マグリットだから買ってみたら、大当たりだったんです。

 原書に限らず、どんな本でも装丁ってすべてがあらわれていると思うんですよ。人間の顔と同じです。だから本を選ぶ目安として私はすごく信頼しているし、実際かなり打率はいいと思います。自分がジャケ買い野郎なんで、翻訳した本の装丁にはけっこう意見を言うんですよ。そういう翻訳者って少数派らしいんですけどね。

――以前、トークイベントで、日本でまだ紹介されていない海外の作家について一番詳しい存在は翻訳家なのだから、装丁からあとがきまで一貫してプロデュースするのも翻訳家の仕事だとおっしゃっていたのが記憶に残っています。紹介のされ方次第で、日本でのその作家のイメージが左右されるとも。いま話題のアメリカの作家、ルシア・ベルリン(1936〜2004年)も岸本さんが日本に初めて紹介した一人です。

 ルシア・ベルリンの『掃除婦のための手引き書』(講談社)の装丁は、『ひみつのしつもん』をはじめ、エッセイ集の挿絵と装丁を手がけてくださっているクラフト・エヴィング商會のお二人にお願いしました。

 最初、自分のなかに漠然とルシア・ベルリンの写真が表紙にある本っていうイメージがあったんです。でも、写真の彼女があまりにも美人すぎて、本人だってわかってもらえない可能性があると言われて。映像化された時の主演女優だとか、イメージ写真だって思われる、と。

 それで、一度は象徴的なイラストを使ってスタイリッシュな感じにしようか、とも話し合いました。でも、初めて本格的に日本で紹介する作家でもあるので、「この人が書いています」とわかってもらいたかったということもあり、やっぱり彼女の写真を使うことにしたんです。

『掃除婦のための手引き書』(講談社)

 というのも、彼女は3回の結婚と離婚をし、シングルマザーとして4人の息子を育てながら掃除婦や電話交換手、看護師などをして働いていたという、紆余曲折の人生を送った人で、生涯に短編を76作書いているんですけど、基本的にすべて実人生がもとになっているんですね。作品から聞こえてくる彼女の“声”が非常に独特かつ魅力的で、どうしようもなくこの人そのものなんですよ。

 表紙で使っている写真は彼女の三番目の夫が撮ったスナップ写真で、もとはカラー。素人写真なので画質があまりよくなくて、それを下半分の黒で締めるなど、いろいろと工夫していただいて、本当に素晴らしい装丁にしていただきました。
 自分でもこんな感触は初めてだったんですけど、出る前からものすごくみんなに待たれているという感じがありました。

――岸本さんは十数年前にリディア・デイヴィスがルシア・ベルリンを絶賛していた文章を読んで彼女を知ったとのことですが、いまというこのタイミングで岸本さんが訳されたのには何か理由があるんでしょうか?

 本当は、老後の楽しみにちびちび訳そうと思っていたんです。過去に出ていた作品集はすべて絶版になっていたし、まさに“ライターズ・ライター”で、作家の間では評価が高かったものの一般読者にはほとんど知られていなかったということもあって。でも、『掃除婦のための手引き書』の底本となる “A Manual for Cleaning Women”という作品集が2015年にアメリカで出版されて話題になって、これはいま訳すべきだと考えを変えました。

 彼女はずっと書いていたし、本も出していた。でも、生きている間には話題にならなかったのに、このタイミングで「こんなすごい作家がいたとは!」と驚きとともに再発見され、すごく読まれている。彼女の時が巡ってきたとしか言いようがないですよね。