鴻巣友季子の文学潮流(第28回) 言葉が人間を作ることを示す「トラジェクトリー」と「ジェイムズ」
今期の芥川賞・直木賞はどちらも該当作なしという結果になったが、今月は芥川候補作からグレゴリー・ケズナジャットの『トラジェクトリー』(文藝春秋)と、いま英米の文学賞を総なめにしているパーシヴァル・エヴェレットの『ジェイムズ』(木原善彦訳、河出書房新社)を、「言葉が人間をつくる」という観点から読みあわせたい。両作とも言葉のコードスイッチが精妙で、『トラジェクトリー』は日本語と英語の、『ジェイムズ』はブロークンな英語と標準英語の切り替えが頻繁に行われる。
『トラジェクトリー』から紹介すると、米国テキサスの大学を卒業後、なんとなく日本の英会話学校の教師に応募したブランドンという男性が主人公だ。2カ国語小説だが、全編が日本語で書かれている。日本語での会話は「」(かぎかっこ)を使い、英語での会話は―(ダーシ)を使うのが区別となる。
プランドンの赴任地は名古屋東校というショッピングセンター内にある職場だった。室長の掲げる志は勇ましい。ひと昔前は趣味や教養で英語を勉強する人たちがいたが、現在の英語教育とは「グローバルな時代に備えて、グローバルで活躍していく日本人をサポート」していくべし。「グローバルなマインドセット」を持たなければ日本は衰退していってしまうのだ、と。要するに、生き残りのための英語習得という切実なものに切り替わっている。彼はそうぶちあげるのだ。
ところが、実際に入会してくるのは、「ぶっちゃけ、暇なおじさん」や、親子で英語を身につけようという幼児連れなど、英語の必要に迫られていない人たちが大半の模様だ。
ブランドンは上級の社会人クラスも担当している。3人の生徒のうち2人の女性は予習復習もしっかりやる真面目な生徒だが、問題はカワムラさんという精密機械製造メーカーを退職したばかりの男性だ。なにかと授業にケチをつけてくる彼の英語は流暢ではなく、始終日本語にスイッチしてしまう。彼の英語が拙いとすれば、日本語はぺらぺらねちねちと偉そうだ。
英語だとブランドンを食事に誘うときも、”―そうしたら食べに行きましょう”と言うし、出身地の話でも、”―南部といえばヒューストンがありますでしょう”という英語になる。文面は英語ではなく、この人はこれぐらい丁寧な英語で話していますよ、ということを日本語で表現しているのである。
ところが、日本語にスイッチしたとたん、「飲むだろ?」とか「こんなの、みんな面白いのか?」といった口調と態度になってしまう。さらには講師を馬鹿にして、「COASってね、Crewman Optical Alignment Sightの略なんだ。〈中略〉知らないだろ?」「ネイティブのくせに俺に負けてるんじゃないか」などと苛める始末。
カワムラさんはマンツーマンレッスンも取っており、ここではアポロ11号の全通信記録を講師と交互に音読していくという、けったいな学習方法をひたすら続けている。
カワムラさんは英語と日本語でまるで別人なのだが、ケズナジャットは言語がいかに人間をつくるかということを書いてきた作家でもある。言葉は思考、性格、生き方をつくる。
このことは、イギリス英語を話す日本人スタッフの言動にも顕著に表れている。彼女がお客相手に丁重な日本語で話すときと、講師相手にカジュアルな英語で話ときを見比べて、「まるで人格が違うようだった」とブランドンは驚くのだ。
この「外国語を話せることで人間も世界もが変わる」というのは、語学学習者の希望的幻想でもあるだろう。作者は英会話学校の広告を分析して、そうした妄想を痛いほど的確に切りだしてみせる。引用しよう。
スーツ姿の日本人男女が落ち着いた笑顔でスーツ姿の白人男性と話している。背景はオフィスのようだ。言葉にされない訴えがはっきりと聞こえてくる。
グローバルな人間になってみないか。
この退屈で窮屈な社会を抜け出して、別の世界に入ってみないか。
ここなら上下関係もなければ煩わしい敬語もなく、揚げ足を取る同期もパワハラをしてくる上司も、今のあなたの人生を耐えられないものにさせているすべてのものが取り払われ、あなたがとっくに忘れてしまった人間性、本当の自分を取り戻すことができる。この笑顔をご覧なさい。
英語へのスイッチ一つで、「別の世界」に行けて、パワハラ上司からも解放され、人間性の回復まで出来るらしいのだ! もう一つ重要なのは、“英語ぺらぺら”能力というのは、豊かな白人社会のイメージと結びついていると暗に指摘されていることだ(こういう広告にアジア系のビジネスマンは出てこない)。
本作にはもう一つ重要な言葉のコードスイッチがある。カワムラさんが英語で書いて講師に提出する日記だ。その書き言葉は、彼がしゃべるときの横暴な日本語とも、拙い英語ともまったく違う。本作のなかでもこの部分だけが抒情的なテクストとして異質の佇まいを見せている。
日記のなかの彼は宇宙への少年のような情熱を語る。辞書を引いたり文法を調べたりするらしく、英語も端整だ(ということが日本語からわかる)。優しくて繊細な人のように感じられ、ブランドンは「どちらが本物のカワムラさんか分からない」とまで言う。
「私は、望遠鏡を買いました」と始まるある日の日記は「星は見ないうちにその存在を忘れます。夜空を見上げようと思わなくなります」という一文で終わり、なんだか短篇小説のようでもある。この望遠鏡の記憶は、彼が介護してあっけなく亡くなった父への思いにつながっていく。文中のカワムラさんは涙を流す。そしてアポロ11号に乗った3人が見た光景に思いを馳せる――こんな記述は作り事かもしれないし、案外、彼の真の精神生活かもしれない。いずれにせよ、この人にとってそれは母語以外の言葉で、赤の他人のような英会話講師に向けてしか表出できないものなのだ。この言葉は簡単な英文の添削をされただけでカワムラさんの元に帰っていく。
私はこの行き場のない、やたらと美しく造りこまれた言葉の羅列に最も胸を突かれた。それらは嘘にしろ真にしろ、言葉のコードスイッチをすることでしか外部への回路を持てなかった何かなのだ。そう思うと狂おしい気持ちになる。
この日記を読んでいるブランドンはと言えば、特に指導スキルの上達も昇進もなく、名古屋でモラトリアムな毎日を過ごしている。それはこの英会話学校に勤める外国人講師全員に共通することのようだ。ケズナジャットは前作の「開墾地」でも2つの国と2つの言語の宙づり状態を書いていた。本作では、最後に時間が10年とんで、出てくる主人公はもう英語も日本語も使わずに仕事をしている。これも新たな宙づりの形ではないか。
さて、言語のコードスイッチを巧みに利用して、黒人奴隷が白人を欺いていたという設定なのが、『ジェイムズ』である。マーク・トウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』を黒人奴隷ジムの視点から語りなおしたリトールド(retold)ものの傑作だ。
前半は『ハックルベリー』の筋書きにけっこう近い。幕開けは南北戦争の直前、人種差別のひどかった南部ミズーリ州のハンニバルが舞台だ。飲んだくれの父親から逃げだした白人少年ハックと、逃亡奴隷の黒人ジムが島で再会し、自由を求めて逃走をつづける。ところが、後半は驚きの展開が待ち受け、結末もまったく異なる。ハックたちが無事に地元に戻ってくる原作の予定調和的なものを徹底的に破壊すると言えるだろう。
『ジェイムズ』では、『ハックルベリー』や『アンクルトムの小屋』などで白人作家が使ったブロークンな黒人英語を再現している。もちろん白人文学を風刺する意図をもってそうしているのだが、じつは本作の黒人たちは標準英語が話せるのだ。黒人同士で話すときには端整な英語を使い、農園主の白人たちがいる場ではブロークンな英語にスイッチする。ジムはcorrect incorrect grammar(正しく間違っている文法)を子どもたちに教えもする。「食べてねえだ」と誰かが言うと、「食べたことがねえだ」のほうがいいなどと。
とはいえ、ジムはサッチャー判事の本棚の書物を読み漁り、ヴォルテール、ロック、スチュアート・ミルを読みこなすぐらいのリテラシーと知性がある(この物語を書いているのも彼自身)。ブロークンな英語を使うのは、白人が求める黒人奴隷像を提供するためでもあり、白人に内輪の話を理解させないためでもある、というのが本作の設定だ。エヴェレットは文学における非標準言語の問題を彼らしいメタ意識をもって扱い、意義深い問いかけをしている。言葉が人格をつくるのだ。
近年のエヴェレットの上昇気流には驚く。2022年には黒人への暴力を題材にした「木々」(未邦訳)がブッカー賞候補になり、2023年には20年余前に書いた「消去」(未邦訳)が「アメリカン・フィクション」として映画化され、アカデミー脚色賞を受賞、原作にも光が当たった。『ジェイムズ』はブッカーを除くほとんどの主要文学賞を獲得したと言える。
「消去」で皮肉られたのは、黒人文学が白人の免罪符として機能することだった。作者を思わせる医者一族のエリート黒人作家が上質の文学を書いても売れず、なのに暴力とドラッグとFワード満載の「貧しい黒人の物語」を、ぽっと出の女性作家が出版すると、ベストセラーになるのを見て激怒。嫌味のつもりで、ステレオタイプな黒人観を打ち出したB級小説を書いたら、これが白人編集者に高く買われ、バカ売れして文学賞まで授与されてしまう――。
この小説と映画が辛辣に批評するのは、「虐げられるマイノリティ」の物語を直視することで罪悪感への緩和剤や免罪符を得ようとする白人たちのご都合主義だ。ところが、「消去」という小説自体が作中の本と同じ流通と消費の道をたどったとも言える。現実までを飲みこんでいく作品だ。
そしてこれは『ジェイムズ』にも通じることだと思うのだ。この風刺小説の刺をいちばん楽しんでいるのは、アメリカの歴史に正しく自責の念をもつ、このメタ小説を読み解けるリテラシーをもつ、感性の鋭い白人読者たちだろう。いまも踏みつけられて社会の底辺にいる人種的マイノリティが手に取ることは少ないかもしれない。そう思うとこの本自体が喚起する強烈なディレンマが立ちあがってくるではないか。