今年、生まれて初めて人間ドックに挑戦し、胃にカメラを入れることになった。正しくは上部消化管内視鏡検査というらしいが、不惑を迎えるとよく話題にのぼる胃カメラ検査である。問題はカメラを鼻から入れるか、口から入れるかであった。小さい頃から警戒心が強く、嫌いな食べ物も飲み物もどうしても飲み込むことができない。そんな自分が小型とはいえカメラを飲み込める気がしなかった。とはいえ、鼻から入れたとしても嘔吐(おうと)反射や苦痛が軽減されるだけで無にはならないという。悩んだ末、鎮静剤を使用してくれる医療機関を選ぶことにした。
当日、緊張しながら施設に行き、誘導されながら流れるように様々な検査を受けていく。胃カメラは最後だった。検査をする部屋は手術室のようで、指や腕に酸素量や血圧を測る機械をつけられ、マウスピースを咥(くわ)えさせられ、なにやら物々しくなっていく。腕の血管に針が刺されて「鎮静剤、入れますね」と言われ、マウスピースで返事ができないと思った次の瞬間、「…さーん、…さーん、終わりましたよ」と声をかけられ仰天した。眠りに落ちた意識もなかった。頰に垂れた涎(よだれ)と進んだ分針がなかったら、眠ったことも胃にカメラを入れられたことも信じられなかっただろう。鎮静剤、すごい。
けれど、気になったことがあった。目覚めた瞬間、私は「夫が呼ばれている」と思ったのだ。二年前の結婚時、夫の姓に変えた。しかし、仕事では旧姓を使い続けているし友人も結婚前の姓で呼ぶ。夫婦共通の知人は区別のために私達を下の名で呼ぶので、日常生活で私は夫の姓を使うことがない。自分がもう前の姓ではないことを意識するのは公的な書類が届く時くらいだ。これでは、もし事故や急病で意識障害が起き、病院に運び込まれても、私は呼びかけに反応できないのではないだろうか。
結婚前の姓で仕事している人は周りに多い。日常の名前は前のままなのだ。利便性に加えて医療面でも夫婦別姓について考えてしまった。=朝日新聞2025年7月30日掲載