「食べられなかったもの」をテーマにした理由
——なぜ「食べられなかったもの」を初めてのエッセイ集のテーマにしたのでしょう?
出版のお話をいただいた時、編集さんが「これを読んでいいと思ったんです」と挙げてくださったのが、Webメディアに寄稿したコミュニケーションの葛藤をめぐるエッセイでした。10代後半から20代の頃の自分は人と話す時に“正解”を探しに行ってしまうところがあって、そういう八方美人さとどう折り合いをつけるかを綴ったエッセイです。若い人特有の考えすぎちゃう感じや、コミュニケーションで悩んできた感じが面白かったと言ってくださったんですね。
私自身、エッセイを出すならコミュニケーションをめぐるテーマがいいなと考えていました。でも、それだけで出すのは「素材すぎる」というか、感情をそのままぶつけるのは、読み手にとってしんどい読書体験になると思って。別のモチーフを一つ挟みたいと考えるうちに、思い浮かんだのが「食べられなかったもの」でした。
大人になると、コミュニケーションの場の多くが食事をともないますよね。私は不安障害や視線恐怖の感覚から会食恐怖症のようなところがあって、幼少期から20代の頃までは人前で満足にご飯を食べられないことがたくさんありました。食べられなかった経験が、コミュニケーションの失敗とセットになっていました。
表題作は静かな喫茶店で音を気にしてゆで卵を割れなかった話ですが、当時の自分の気にしすぎる性格を象徴しています。これを起点に考えてみると、すぐに2、3個思い浮かんで、これなら1冊書けるかもしれないと思いました。
——食べるタイミングを逃した、意地でも食べなかった、口にしたけど味わってないなど、「食べられなかった」と一口に言っても色んなバリエーションがあり、内容も繊細なものだけでなく多彩なエピソードが収録されていますね。
ホラーっぽいものや、恋人とのくだらない大喧嘩、家系ラーメンで「壊れかけのRadio」がエンドレスで流れているコントっぽい話など、色々書いています。様々な話を入れて、読んだ時に驚きがあるものにしたいと思っていました。
——情景が頭に浮かぶような、映像的な文章が印象的でした。
読んでくださった方から「映像的ですよね」と感想をいただくことがあります。自分ではわからないのですが、視点の置き方や風景の編集の仕方がそうなっているのかもしれないですね。過去のエピソードを書こうと思った時、いつも景色を思い出すんです。感情とセットでその時のシーンを覚えているので、印象に残っている景色はできるだけ書き漏らさないようにしたいと思っていました。
——これまで多くのエッセイを書かれていますが、今作が初の著書です。一冊の本を作る上で、どんなことを大切にしていましたか?
エッセイは基本的に、いかに強いエピソードをぶつけるか、どんな人が書くかに注目が集まりやすい文芸ジャンルだと思います。でも、私はもう少し小説的な、作品として読めるものにしたいと考えていました。
このエッセイ集にはインパクトの強いエピソードも書いています。たとえば、付き合ってから半年間、名前も年齢も住所も職業も全部偽造していた元カレとか……。こうした話は書き方を工夫しなくても、それ自体の面白さだけで読めちゃうかもしれません。でも、それをやるのは気に食わなくて。私のことを知らない人や、エッセイに対して「ライトな文芸でしょ」と偏見を抱いている人にも、「いいじゃん」と思ってほしいと考えていました。エッセイが軽く見られているような悔しさが根底にはありましたね。
エッセイがフィットする感覚があった
——エッセイは昔から書いていたのでしょうか?
日記はずっとつけていたけど、エッセイは書いていませんでした。
小学校では文芸部でした。そこではみんな小説を書いていたので、何となく私も小説を書いていたんです。大きくなってドラマや映画を見るうちに「セリフ書く方が好きかも」と思って、大学ではテレビドラマの研究をするように。並行して自分でも脚本や小説を書きつつ、ちょっとだけ短歌や詩歌も作っていました。
——常に言葉で何かを表現しようとしてきたんですね。
ただ、書きたいことに合ったフォーマットが見つからない感覚がずっとありました。
しばらくは脚本にこだわって、社会人になってからもシナリオコンクールに応募していたんです。でも、信頼している読み手や書き手の友達に見せると、「シナリオってサイズ感じゃないんじゃない?」みたいなことをよく言われて。「地の文も書きたいでしょう」「あ、書きたい」「じゃあ小説じゃない?」と話して、小説を書いてみたら今度は「でも自分の身に起こったこととか、かけられた言葉を書きたい」と思って。
その後、社会人になったばかりの頃にnoteが流行りはじめました。そこで軽いエッセイを書いてみたらすごくフィットする感覚があって、徐々に書くことが増えていきましたね。
自分をすり減らさないよう、語りと感情に距離を作る
——本作では、過去の経験と向き合うことで当時の気持ちを消化しているような印象を受けました。生湯葉さんにとって、書くことと自分をケアすることはつながっていますか?
昔はやりきれなかった気持ちや体験を消化するために書いていたと思います。noteをはじめた頃、仕事や上司とのコミュニケーションでうまくいかないことがありました。とにかくこのやりきれなさをぶつけたい気持ちでエッセイを書いたら、たまたまちょっとバズって。「こういう気持ち、自分も抱えてた」とメッセージをもらって、自分の傷が癒える感覚がありました。
ただ同時に、ずっとこの書き方をしているとどこかで消耗するなとも感じました。リアクションが寄せられることで、読者の傷を癒そうと自分が思いはじめてしまうと思ったんです。
その頃、エッセイストの雨宮まみさんが「体験や切実さを切り売りする文章を書き続けていると、どこかで自分がすり減っていく」ということを、ものすごく誠実に書かれていたのを読みました。その時の自分が考えていることにも近かったので、語りと感情に距離を作った方がいいと考えるようになりました。
——語りと感情の距離を作ることは、「食べられなかったもの」というモチーフを挟んだことともつながりますね。
そうですね。今はセルフケアの感覚はそんなになくて、ある程度消化できている気持ちを書くようにしています。だけど、読者の方が「当時のことを思い出した」「自分もこういうことあった」と言ってくれることで、ケアの感覚がちょっと戻ってくることがあります。
核となる感情には嘘がないように
——これまでに影響を受けた作家はいますか?
たくさんいますが、執筆中によく読み返していたのはサンドラ・シスネロスというアメリカの作家です。私は読んだものの影響を受けるタイプなので、1年半くらいの執筆期間は、ほぼSNSは見ていませんでした。ネット上の強い言葉に触れると影響を受けすぎちゃうから、極力自分が好きな文章だけを読んでいようと。
シスネロスの本は、『マンゴー通り、時々さよなら』と『サンアントニオの青い月』(ともに白水社)の2冊が邦訳されています。子ども時代の景色をすごく鮮やかに書く人で、描写自体が美しいし、子どもの視点から見える世界の捉え方に嘘がない感じがします。
エッセイを読んでもらうとわかると思いますが、私は子ども時代に全然いい思い出がないし、自分が子どもでいることがすごく嫌だったんですね。その感覚が共通している気がして、描かれている痛切さに共感します。
津村記久子さんの作品も好きです。人とのコミュニケーションの機微を詳細に書くところに影響を受けました。
——シスネロスの文章は「嘘がない感じがする」とのことですが、エッセイを書く時は嘘がないようにしたいと思いますか。
嘘がないようにと思っていますが、エッセイが何から何まで本当である必要は、必ずしもないと思っています。この本でも、細かい時系列やできごとの繋げ方は、けっこう脚色をしているんです。だけど、そのエッセイのきっかけになった部分、今作で言うと食べられなかった理由になっている感情は嘘がないようにしています。
18歳ではじめてカップヌードルを食べた時のエピソードを書いたんですけど、これは自分にとって劇的な話だから、どう食べてどんなことを感じたかを膨らませていくこともできたと思います。でも、すごく記念的なできごとだったのに、「味、全然覚えてないな」というのが正直なところで。だったら覚えてないことを書いた方が誠実だと思って、今のかたちになりました。
書きたいことを全部書けた
——エッセイでは日常の中にある笑いがたくさん描かれているのも印象的でした。笑いやユーモアについては、何か考えていましたか?
笑いについて聞かれたのはじめてですね。なんだろう……あまり意識せず、素朴に書いているかもしれません。ハードなできごとをそのまま書くと重くなってしまうから、風通しを良くしたい時に自然とユーモアの力を借りています。言われたことや誰かの仕草について、「あれ面白かったな」って記憶はたくさんあるので、ちゃんと書きたいとは思っていました。
——執筆に苦労したものや、特に印象に残っているエッセイがあれば教えてください。
なかなか書けなかったのは「手に届かないものは何であれ美しいと私たちが思っていたころ」という短いエッセイです。
「食べられなかったもの」の起点になったのは、自分の会食恐怖やコミュニケーションの不安でした。でも、10代や20代の女性に多い「食べられない」には、摂食障害もあるだろうと思っていて。私自身はその悩みを抱えたことはないんですけど、小食だし、視線恐怖症でもあるから、少しだけ気持ちがわかる部分もあります。
摂食障害で悩んでいる友達も多かったので、このことについては何か書こうと決めていました。でも、どんな文体で書くべきか、硬い文体で専門書をひきながらがいいのかなとか色々考えてしまって、なかなか決められなくて。
結果的に、周りの友達や自分が感じてきたことを主観的な体験として書く方が良いと考えたんですけど、長く具体的に書きすぎると、読み手が思い出してつらくなってしまうかもしれない。迷って編集さんに相談したら、「これだけはすごく短くてもいいんじゃないか」と。たしかに、切実だからこそギュッと凝縮したものでもいいのかもしれない。詩みたいに抽象的に感じるようなものでもいいのかなと思ったら、ようやく書くことができました。
——この本でうまく食べられなかった経験をたくさん書いていますが、最近はどうですか?
10代、20代の時と比べると、かなり減りました。でも、調子が悪いと今でも人前でご飯を食べられなくなります。ただ、ゆで卵ぐらいは割れる感じには、なってきました。
——当時の自分に声をかけられるなら、なんと伝えたいですか。
なんだろう。しんどいと思うし、多分そのしんどさから逃れることはどうやってもできない。でも、その体験をいずれ何かに書くだろうなと当時の自分は思ってたし、「その通りになるよ」ですかね。
今回のエッセイでは、書きたいことを全部書けた感覚があります。次に何を書けばいいんだろうと思ってしまうくらい。ただ、自分にはエッセイがフィットする手応えを得られたので、時間はかかると思うけど、良いテーマが見つかったらまた書きたいと思っています。
——最後に、生湯葉さんの好きな食べ物ってなんですか?
豚汁です。生湯葉は2位なんです。好きな食べ物をペンネームにしたんですけど、1位が豚汁で、でも「豚汁シホ」はやばいかなと……(笑)。だったら生湯葉にしようと思って、この名前で書いています。