平田オリザが読む
島崎藤村が『破戒』を刊行し、日本近代文学がその黎明(れいめい)期を終えようとしていた一九○六年、同じ時期に夏目漱石は小説『坊っちゃん』を書きあげた。
英国留学中から発症した神経衰弱の緩和の方策として、筆任せに書かれたデビュー作『吾輩は猫である』。幻想的ではあるが、いささか高踏的に過ぎる短編『倫敦塔』。それらに続く作品となる『坊っちゃん』は、構成もしっかりとしており、初期の代表作と呼ぶにふさわしい。
後年の重々しい作品群とも異なり、軽妙洒脱(しゃだつ)、文体のリズムも弾み、ここに『破戒』と並んで、まったく別の形で言文一致が完成を見せたと言える。
「親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている」
という書き出しから、
「だから清の墓は小日向の養源寺にある」
という文末まで、そのリズムが乱れることはない。漱石は、これをほとんど一週間で書いたと言うが、おそらく頭の中に、すでに書くべき文章が、ほぼ完全な形で浮かんでいたのだろう。
落語好きだった漱石の文体は、声に出して読んでも、そのまま耳に入り意味がとれる。これは当時の文章としては画期的なことであった。
やがて漱石は、帝国大学英文科教授の職を断り朝日新聞社に入社、新聞小説の連載を開始する。この時代、新聞小説は、たとえば父親が茶の間で、子どもたちに読んで聞かせるようなものだった。漱石の文体は、音として日本中に広まることになった。こうして二葉亭四迷や北村透谷の苦悩の末に生まれた日本近代文学の言文一致体は、一挙に世間に流布することとなる。
明治維新から約四十年、四民平等、努力で出世できる世の中、身分を超えた恋愛など社会は大きく変化した。そしてやっと言葉がそこに追いついた。漱石たちが発明した文体で私たち日本人は、一つの言葉で政治を語り、裁判を行い大学の授業を受け、喧嘩(けんか)をしラブレターを書くことができるようになった。=朝日新聞2019年12月7日掲載