プロをもうならせる徹底したリアリティ
――伊藤さんが最初に『ドカベン』を手に取ったのはいつ頃のことですか?
小学生のときですね。この頃は「少年チャンピオン」でマンガも連載中だったし、テレビアニメもやっていました。僕にとっては、ちょうど野球を始めるかどうかという頃でしたけど、あの頃の小学生の男の子だったら、野球をやっている子も、そうじゃない子も、みんな『ドカベン』は読んでいたんじゃないのかな? 僕らが小学生の頃はまだJリーグもなかったし、男の子の多くは野球が大好きでしたからね。
――確かに、当時の小学生たちは空き地で野球をして、自宅や学校では『巨人の星』、『侍ジャイアンツ』、『キャプテン』など、野球マンガやアニメに触れていましたからね。
そうですね。ちばあきお先生の『キャプテン』は、マンガもテレビアニメも見ていたし、続編の『プレイボール』も大好きでしたね。でも、最初に熱心に読んだのは『ドカベン』でした。一試合が終わるまでに1巻じゃ終わらなくて、何巻もかかるでしょ(笑)。「一体、この試合はどっちが勝つんだろう?」って、ハラハラしながら夢中で読んでいましたね。
――改めて振り返る『ドカベン』の魅力とはどんなところにありますか?
ドカベンこと主人公の山田太郎をはじめとして、岩鬼(正美)、殿馬(一人)、里中(智)、微笑三太郎など、キャラクターがみんな魅力的でしたよね。それに、何よりも明訓のライバルがすごかったですから。白新高校の不知火(守)、横浜学院高校の土門(剛介)、土佐丸高校の犬飼三兄弟、通天閣高校の坂田三吉! いくらでも出てきますよ(笑)。
――多彩な登場人物がそれぞれ火花を散らす試合描写は最高でした。
そうそう、この作品の魅力は野球シーンがリアルで迫力があることでしたね。他のマンガは「魔球」や「必殺技」みたいに現実感がないものが多かったけど、『ドカベン』の場合は、細かいルールや配球などにきちんと触れてあって本格的でしたから。このマンガを通じて野球を覚えていったといっても過言じゃないかもしれないですね。
――作者の水島新司先生が大の野球マニアとして有名ですからね。
実際に何年か前に高校野球でありましたよね。一死満塁のピンチの場面で、外野手がフライを好捕、セカンドランナーが飛び出してダブルプレーになった。守備側は意気揚々とベンチに戻ったけど、先にホームインしていたサードランナーの得点が認められて、本来ならば「ゲッツーでチェンジだ」と思ったのに1点が入ったケースがありました。これは「第3アウトの置き換え」というめったにないプレーなんです。でも、これと同様のシーンが『ドカベン』にはすでに描かれていましたからね。
――単行本35巻の明訓高校対白新高校戦ですね。0対0で迎えた延長10回一死満塁の場面、明訓はスクイズを試みたものの投手前の小フライでツーアウト。この間、サードランナーの岩鬼が飛び出してホームインしていたけど、白新サイドは同じく飛び出していた一塁に投げてスリーアウト。しかし、明訓の得点は認められた。実に複雑な場面ですね。
このシーン、よく覚えていますよ。このとき白新の不知火がサードに投げて、審判にアピールしていれば普通にスリーアウトチェンジで得点も認められなかったんです。でも、一塁に投げてしまったから得点が入ってしまった。スリーアウト目が成立した後でも、第4アウトを成立させた上で審判にきちんとアピールすれば、それを第3アウトに置き換えられたのに……。これは、自分がプロ野球選手になって、指導者になったからきちんと理解していますけど、これだけ複雑なルールを少年マンガで描いていたのだから、やっぱり『ドカベン』はすごいですよ。野球の奥深さと難しさ、楽しさをしっかり教えてくれたのは『ドカベン』でした。このマンガの影響でプロ野球選手になった人も多いというのも納得ですよね。
「復興五輪」の思いを胸に、ぜひ金メダルを!
――伊藤さんは1992年のバルセロナ五輪に出場。3試合に登板して27奪三振。これは現在も破られていないオリンピック記録です。
確かにオリンピック記録ではあるけど、僕が登板したのはスペイン戦、イタリア戦と格下相手だったので、そんなに威張れるような数字ではないですけどね(笑)。ただ、3位決定戦の対アメリカ戦の先発はものすごく緊張しました。もちろん、自分の記録のためではなく、1984年のロスが金メダル、1988年のソウルが銀メダルでしたから、「最低でも銅メダルは獲らなければ」という思いがプレッシャーとなっていました。
――それでも、見事にこの試合に勝利して、日本代表は銅メダルを獲得しました。この大会での活躍によって、伊藤さんの実力も大きくアピールすることとなりました。
銅メダルを獲得できたのは本当によかったです。僕にとっては初めての代表入りで、初めての国際大会だったので、自分がどこまでできるのか未知数だったけど、メダル獲得に貢献できて、自分のスライダーが通用することもわかって、大きな自信をつかむことのできた大会となりました。今でも当時のメンバーたちとは交流がありますが、いい経験をして、いい仲間と出会えたのが1992年のバルセロナ五輪でしたね。
――大会本番では、後の伊藤さんの代名詞となる「高速スライダー」が見事に決まっていましたね。
高校時代まではたいした成績を残していなかったので、自分の実力は自分でもよくわかっていませんでした。でも、社会人時代にスライダーを覚えて、アマチュアの最高峰である選手たちの中できちんと成績を残せて、「オレはプロでもやれるんだ」と思えたことはメダル以上に、僕にとっては大きな価値のある体験でした。
――さて、いよいよ2020年が訪れました。東京オリンピックまであとわずかです。金メダルが期待される侍ジャパン・稲葉篤紀監督はヤクルト時代のチームメイトでもあります。伊藤さんから見た稲葉監督はどのような方ですか?
とにかく真面目でしたね。いつも手を抜かずに熱心に練習をしていたから、チームメイトからも首脳陣からもかわいがられていました。生真面目な男だから、人一倍責任感を持っていると思うし、自国開催ということでプレッシャーも想像できないほど大きいと思うけど、自分のやりたいようにやってほしいですね。昨年のプレミア12でも見事に優勝しましたし、プレッシャーをはねのけるだけの実績のある男なので頑張ってほしいです。
――昨年11月のプレミア12決勝戦は東京ドームの観客席からご覧になったそうですね。
自分でチケットを買って、野球をやっている小学生の息子と一緒にバックネット裏から侍ジャパンの応援をしました。一観客、一ファンとして興奮しながら侍ジャパンを応援しました。このときの稲葉監督も、先発の山口俊(巨人)が本調子じゃないと判断するや、2回表からはスパッと二番手の高橋礼(ソフトバンク)にスイッチしたり、3番手の田口麗斗(巨人)は2イニング目も続投させたり、「稲葉流」の采配が光ったと思いますね。
――この試合ではかつて、ヤクルト時代に接していた山田哲人選手が決勝点となる3ランホームランを放ちました。山田選手の活躍は嬉しかったのでは?
ホームランを打つ前のボールをファールしたときに、タイミングが合っていたので「これは打つぞ」って息子に話しながら、携帯で動画を撮っていたんです。そうしたら、その瞬間に見事なホームラン。あれは嬉しかったですね。「さすが、山田!」って思いました。プレミア12では不動のレギュラー選手ではなかったけれど、打撃センスは日本でも一、二を争うバッターなので、東京オリンピックではレギュラーとして活躍してほしいですね。
――東京五輪の最終メンバーはまだ確定していませんが、岸孝之投手、則本昂大投手、松井裕樹投手など、現在伊藤さんが指導している楽天投手陣も選ばれる可能性がありますね。
そうですね。則本は侍ジャパンの中でもエース格として期待される投手です。チームを預かる投手コーチとしては、「とにかくケガだけはしないでほしい」という思いが強いけど、代表に選ばれて大事な場面を任されるのであれば自分の力を存分に発揮してほしい。こうした大舞台での経験は、彼の今後の野球人生にきっと役に立つと思いますから。それは岸に対しても、松井に対しても同様の思いです。
――今回のオリンピックは「復興五輪」という位置づけもあります。
そうですね。東日本大震災を経て、東北の人たちの期待や思いを背負っての出場になりますから、地元の人たちの声援を胸に本番に臨んでほしいですね。ある意味では「復興五輪」という使命を背負っての出場ですから。楽天の選手に限らず、日の丸を背負って戦うすべての選手たちに精一杯の声援を送りたいです。僕がバルセロナ五輪で多くのことを学び、自信をつかんだように、今回出場する選手たちも、プレッシャーは大きいと思うけど、悔いのないように全力でプレーして、ぜひ金メダルを獲ってほしいと心から思っています。