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自宅を旅する 津村記久子

 寒い時はエアコンではなくカーボンヒーターを愛用している。そしてその前に座り込んで離れない。長い間暮らしていた部屋にあったのが、冷房のみの窓付きエアコンで、暖かくする時はずっと電気ストーブを使って暮らしていた名残だと思う。そして二本の熱くなる管のうちの一本しか使わない。暖かさの度合いが800Wと400Wや900Wと450Wなら、ほとんど後者であたたまっている。一応今の部屋のエアコンは暖房にも使えるけれども、ほとんど使ったことがない。

 冬場にヒーターの前から立つのはとても決意がいることだ。何かやりたいことがあっても、ヒーターから離れたくないせいでものすごく動きが遅い。今年は正月休みが比較的長かったこともあってこの「動きたくない」が悪化し、もはや「立っているぞ」とさえ思うようになった。「ひさびさに立っているぞ。他の用事もしてやるから思い出せ」と。立っていることがもはや「貴重な機会」とか「資源」になってしまった。ついでに何がしたい? よしポットに水を入れてお湯を沸かそう、お茶の葉を捨てよう、お皿を洗おう、他にやりたいことがある人手を挙げて! 立っているという状態を維持したまま呆然(ぼうぜん)とこれらのことを考え、おもむろに動き始める。

 まだ出不精(でぶしょう)ではあるけれども、四時間ぐらい電車に揺られて出かけることには抵抗がなくなってきたし、一日一度の買い物の時間は楽しみだ。寒い中でもてくてく歩くのは好きなのだ。けれどもヒーターの前にいる時は、自宅の台所や洗面所を「近所のスーパー」より遠く感じたりする。家の中じゃないか。なにも桜島や品川に行くわけじゃないのに。もはや旅なのか。

 家の中の旅に出て帰ってきたら、自分を盛大に誉(ほ)める。水をくんだし顔も洗った。新しくお茶も淹(い)れた。よくがんばった。そして仕事だ。夢のような正月休みはもう終わったんだ。今度は速やかに、床ではなく椅子に座れ。=朝日新聞2020年1月22日掲載