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父とチョコチップクッキー 小池真理子

 その昔、虫下し用のチョコレートというものがあった。会社帰りの父が、買ってきたばかりのそれを母に手渡す。母は私の手前、それをエプロンの下に隠すようにすると、こそこそと台所に立ち去ってしまう。

 数日後、おやつの時間に母から一片のチョコレートを手渡される。全体的にうっすらと、白い粉がふいているような色の淡いチョコレート。おくすりのチョコだから、ぜんぶ食べてね、と言われる。ふつうの板チョコよりも歯触りがサクサクしており、甘みも抑えられていたが、かなりおいしかった。しかも、虫下しの効果は抜群だったと記憶している。あんまりおいしいので、もっと食べたくなる。子ども心に、これはお腹(なか)の中にいる虫をやっつけるためのニセのチョコレートなのだ、とわかっていたが、ぺろりと一枚、平らげてしまいたい衝動にかられた。

 虫下しは別にして、おいしいお菓子はいつもそんなふうに父が買ってきてくれた。ゼリービーンズとマシュマロは定番。小さなバナナのかたちをした色とりどりのお菓子は、本物のバナナの香りがした。他には不二家のフランスキャラメル。トリコロール色をした箱の真ん中に、金髪の可愛い白人の女の子の絵が描かれていて、味のほうも高級感があった。昭和三十年代、学校の遠足に子どもたちが持っていくお菓子で、とびきり贅沢(ぜいたく)だったのがチョコレートだった。次がバナナとフランスキャラメルだったような気がする。

 下戸だった父は(ちなみに私は父に似なかった)、社用で酒の席に出ることをいつも嫌っていた。代わりに甘いものには目がなくて、ぜんざい、あんみつ、栗ようかん、大福、なんでもござれだった。私は今でも、甘いものを食べない男性とは永遠に親しくなれない気がしてしまうのだが、それも父を見て育ったからだろう。

 父は晩年、パーキンソン病を患って、歩けない、しゃべれない、文字が書けない状態に陥り、施設で暮らし始めた。当時の父の好物はチョコチップクッキー。施設に業者が売りにくる、少し固めのものがお気に入りで、父の部屋の冷蔵庫にはいつも袋入りの真新しいものが入っていた。歯だけは丈夫だったから、父はばりばりとクッキーをかみ砕いた。父と向かい合わせになりながら、私も威勢よくばりばりとかじった。

 そんなある日。父を訪ね、共にクッキーを食べながら、昔、虫下し用のチョコがあったよね、という話をした。あれ、おいしくて好きだったんだ。ほんとにおいしかったんだから。話すことのできない父は、細めた目に涙をいっぱい浮かべながらうなずいた。

 自宅に置いてある父の遺影と位牌(いはい)の前には、今も時々、チョコチップクッキーを手向けている。=朝日新聞2020年1月25日掲載