タヌキの少女が女性落語家に弟子入り
――本作は人に化けたタヌキの少女・まめだが大正時代の大阪で女性落語家・文狐に弟子入りし、上方落語の修業に奮闘する話です。有名な噺の筋を紹介するだけでなく、三味線や太鼓などの「ハメモノ(鳴り物)」が多用される上方落語の特徴や寄席の舞台裏など、入門したてのまめだの視点から初心者も落語の世界に自然と入り込める作りになっています。そもそも、テーマを上方落語にしたのはなぜですか?
僕は大阪出身ですが、上方落語を聞き始めたのはまだ2年強です。大阪は“吉本傘下の国”なので、幼少時からお笑いはずっと楽しんできました。でも、(当時)落語は全くと言っていいほど聞いてなかったですね。
聞き始めた最初は上方落語と江戸落語の違いも分からず、(江戸落語の名人である6代目)三遊亭圓生を聞いて感動していました。その後、大阪弁の落語もあると気付いて聞いた桂米朝(3代目。上方落語の名人)に、「なんてすごい物がこの世にあるのか」と衝撃を受けたのです。
例えば『百年目』という噺。桜ノ宮(大阪市内、大川沿いの現:桜之宮公園)で、満開の桜の下を船でスーッと通るシーンがあります。下座(上方落語の演奏担当)から三味線や太鼓の音が流れる中、風景についてト書きのスタイルでしゃべる。その時は落語家の映像を見ずにイヤホンで聞いていたのですが、自分がまるで“そこ”にいるような感覚になりました。この時の感覚、プリミティブな感動を絵にしたいと思ったのです。
“音楽”から浮かんだ風景、漫画で伝える
――第1話、まめだが寄席で文狐師匠の演じる『遊山舟』を偶然聞き、初めての上方落語に圧倒されるシーンがあります。文狐のセリフと下座による唄が筆書きの文字となって飛び交う中、噺の世界に引き込まれていくまめだの前に川を行く船の幻が飛び出す描写は、確かに「落語の音声から風景がありありと浮かんだ」体験ですね。
この『遊山舟』の回は、(元の噺の)最初40秒くらいを4ページかけて描きました。「その陽気なこと~」と(文狐が)話し出すシーンから、川に花火が上がるところまでです。落語を普通に聞いていたら40秒くらいで流れていく内容が、僕の“妄想癖”を介したらこうなった。
(落語を聞いていて)フワッと出てきた風景、僕がこの40秒で味わった感動を漫画の形で読者にどう伝えるか、工夫を重ねました。例えば、落語家の「噺」部分の台詞は勢いのある書き文字で描写する一方、(下座が歌う)小唄や端唄は、習字の上手な僕の奥さんにきれいに書いてもらいました。
――江戸落語より“音楽”重視とされる上方落語の噺を、あたかもミュージシャンのライブのように聴き、イラストで再現するイメージなのですね。
僕は音楽があるものに感動しがちなのです。勿論、話の筋で感動できる創作物もたくさんありますが、音楽がある方が妄想ははかどる。前作の『あいどるスマッシュ!』も、音楽用語をバトルに取り込んだりしていましたし。もともと自分でバンドしていた経験も大きいかもしれません。
この手法を例えるなら――。僕は(近年アニメ主題歌を多く手掛ける)LiSAや藍井エイルをよく聴くのですが、彼女たちの曲の中でもアニメに使われていない作品を流しながら、「(妄想の)アニメオープニング映像」をよく思い浮かべるのです。「ここで敵と対面する」といった、自分の想像上の風景ですね。
読者には、このように僕が(落語を通じて)見えた風景を漫画で見てほしいと思っていますが、これが「正解」だとも思っていません。それぞれ浮かぶ風景は違ってしかるべきで、本作も一例でしかない。「こんな楽しい風景が浮かぶんだ」と知ってもらうことで、この漫画が上方落語への入り口になってほしいです。
女の子同士、ポップな掛け合い
――落語要素に加え、本作は大正ファンタジー、そして特にまめだと文狐のライトな百合要素が若い漫画ファンに受けている印象です。普段は芸に厳しくクールな文狐師匠が、夜はまめだと一緒に寝ていたり、かき氷や洋菓子のシベリアを与えて甘やかしたりする面もあるなど、“師弟愛”にもほっこりします。2月には百合漫画誌『コミック百合姫』(一迅社)に出張掲載するとか。
最初から「師弟」や「芸」といったテーマだと、重いですよね。落語の世界は最強の縦社会だし、(大正時代は)現代の価値観ともズレている。そこをなぞるだけではストレスのたまる漫画になってしまいます。
そこで、女の子同士のポップなやり取りを加えました。例えばまめだは敬語を使いません。「百合をガッツリ書いてやろう!」という意図は実は無いのですが、女の子同士という物は、年齢や立場が違ってもポップな掛け合いがしやすいのです。このように、関係性や価値観は現代的だけれど、舞台は大正、そして古典芸能の世界にしました。加えて、ちゃんと努力し壁を越えていくまめだを描くことで「ゆる過ぎず重過ぎず」を心掛けています。
――ちなみに、落語ファン歴自体が決して長い訳ではないTNSKさんですが、本作は上方落語家たちからどんな反応でしたか?
落語の知識は、基本的に自分で調べています。ネット情報では限界があり、書籍で調査していますが、探せば粗もあるかもしれません。本業の方々が読んでどう思うのか、怒られるのではと戦々恐々としたこともありましたが、ここまで暖かい反応と応援ばかりもらえるとは思いませんでした。
2019年12月~20年1月には、大阪の寄席である天満天神繁昌亭で複製原画展を開きました。担当編集が電話したら、とんとん拍子でイベントになったのです。当日は大師匠の方々がパネルの貼り出しを手伝ってくださったり、(イベントに出席した)僕の羽織のよれを直したりしてくれました。
本作を買った上方落語家の桂米紫さんはTwitterで「泣きました。電車の中で」とつぶやきました。初めて(作品に)リアクションしてくれた噺家さんです。米紫さんの好んで話す演目に『まめだ』があるのですが、登場するこちらの「まめだ(子狸のキャラクター)」は死んでしまう。もののあわれが良い噺なのです。ですが、自分の大好きなキャラが漫画の中では楽しそうに芸を磨いているのを見た米紫さんに「新たな命を授けてもらったみたい」「よく調べてくださった」と言ってもらえた。お墨付きをいただけて、安心と同時に嬉しかったです。
もともと落語は歌舞伎よりさらに庶民の物でした。当時はやっていたギャグや俳優など、流行を噺に取り入れてきた背景があります。伝統芸能と言われ始めたのも昭和、戦後からでしょう。そもそも昔から間口の広い業界だったのだと思います。
上方落語は哲学の域にある
――最後に、TNSKさんにとって上方落語とはどんな存在ですか?
上方落語の漫画って、エッセイではあるのですが、創作系では意外と無いんですよね。江戸落語は噺家の動きも静かで奇声を(あまり)発したりせず、粋に見えるのかもしれません。一方、上方落語はギャグがいっぱい。ガハガハ笑うし音楽も鳴りまくるしで、にぎやかです。
しかし、よくよく聞いていくと違う印象になります。江戸落語は人が死ぬなど辛いことがあると、(その通り)「辛い風」に話す傾向があると思います。でも、上方落語は人が死んだ時もゲタゲタ笑ったりする。例えば、『らくだ』は死んだ奴の悪口を言い続ける噺。人の死、貧乏といったものを笑いで包んで見えなくしている。むしろそちらの方が粋なんじゃないかと思う。
そして、ものすごく笑っている人の中に「哀しみ」が垣間見えた時、僕は閉口してしまう。何も言えなくなる。寄席では(自分も)ゲラゲラ笑っていたが、よく考えたら悲しい話だったよな、めちゃくちゃ悲しい話に僕はなぜあんなに笑っていたのかと、ちょっとパニックになる。人間というのは「奥に哀しみがある」方が笑えるな、と。特に大阪の人間が、肌感覚で持っている物かもしれません。上方落語は哲学の域にある気がしますね。