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【追悼】「別役実の世界」本でひもとく 喜劇と悲劇、振り幅大きく 劇作家・岩松了さん

3月に亡くなった別役実さん=1993年撮影

 別役実さんは或(あ)るところで、「ちょっと、それ」とか「うん、まあね」などの他愛もないセリフで戯曲を書いていければ最高だみたいなことを言っています。演劇を成立させるのは言葉の持つ意味ではない、という強い思いからの発言だと思います。言葉は体が発します。体が対するものにどう反応しているかが、その時の言葉を生むのです。おそらく別役さんは喜劇をめざしました。結果、日本の不条理劇の第一人者だと言われるようになります。

善良な図々しさ

 ここにあげる「象」(1962年)、「マッチ売りの少女」(66年)、「赤い鳥の居る風景」(67年)、これらは初期の作品で、役名も女、その弟、医者、旅行者など家族間の続き柄や職業になっていて、「田中さん」だの「渡辺さん」だのと名付けられて、我々がそう呼び馴染(なじ)もうとする生活のニオイはありません。
 そして悲劇色が強い。「象」は原爆でケロイドの背中になった男の生き様。「マッチ売りの少女」は善良な夫婦の暮らす家にマッチ売りの少女が訪れその善良を追い込む。「赤い鳥の居る風景」は親の残した借金を周りの人たちの親切を頑(かたく)なに拒みながら返済しようとする盲目の姉と弟、の話。

 いずれもが社会と個人の乖離(かいり)が大きく、個人が生き抜くためによって立つ倫理が、言葉を変えれば“復讐(ふくしゅう)”に近いものになっている。セリフも実に意味がある。例えば「赤い鳥の居る風景」で殺人を犯してしまった弟のために街の人たちが減刑の陳情書を出し手を差し伸べようとした時、彼らに向かって姉はこんなことを言います。「弟は、人を殺しました。人を殺すだけの力のないままに人を殺してしまったのです。あの子は、それをつぐなう必要があります。(中略)。人を殺すことのできる力と勇気があの子の中にできた時、あの子はみなさまへのつぐないを果(はた)すことができるでしょうし、その時、みなさまの思いやりを受けることができるでしょう。その時まで待って下さい。あの子はまだ、みなさんになぐさめられるに足るほど強くはないのです……」

 安易に築かれようとする似非(えせ)ヒューマンなドラマに異をとなえる覚悟、というより社会の中で個人を律しようとする時、その自恃(じじ)の状態は喜劇的なはずなのに様相は悲劇的、そのことをまずは言っておく、という印象ではないでしょうか。

 その後別役さんは、いちおうの責任を果たしたかのように、直接的な悲劇色を封じ、セリフも出来るだけ意味なく、言うなれば、世の中の役に立たない人たちの真剣な眼差(まなざ)しの先にあるものを見るような、そんな戯曲を多く書いていきます。それは必然的に喜劇的な様相を呈してゆくのです。「壊れた風景」(76年)などはその一例。何者かがハイキングしているらしいが今は誰もいないその場所を通りがかりの者たちが遠慮しながら占領してゆく。善良な顔した無自覚な図々(ずうずう)しさ、いかにも全体がなく局部ばかりを見ている人たちの喜劇と言えるでしょう。

なぜ不条理劇か

 そう言いながら私は個人的には「木に花咲く」(80年)を好きな戯曲にあげるのです。これには喜劇的なものに目を向けていた別役さんが、突如出発点に帰って直接的な悲劇を書いたように私には感じられるからです。この悲劇から喜劇への振り幅の大きさは別役戯曲の懐の深さに他ならないでしょう。電信柱一本や、バス停にベンチひとつで社会を表現しようとした背景の中で、生活からはぐれた人たちを描いた別役実の劇世界がなぜ不条理劇と呼ばれ、人物たちは名づけられることなく男1とか女2などと記されるのか、その理由は読者の皆さんに考えて欲しい、と思うのです。=朝日新聞2020年5月16日掲載