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「鬼滅の刃」の鬼…なぜ人はゾンビ系キャラにひかれるのか 「大学で学ぶゾンビ学」岡本健さんインタビュー

文:ハコオトコ 写真は岡本健さん提供

ゾンビは「誰でもなるかもしれないモノ」

――鬼滅の「鬼」をはじめ、「感染する」「タフで人間を襲う」といった特徴を持つゾンビ系キャラ。本書では映画をはじめ、漫画・ゲームなどで活躍する彼らがどんな「役」を演じてきたかについて、膨大なコンテンツ分析から論じています。古典的ゾンビ映画では呪術師やナチスなどの先兵となり、最近では感染症への恐怖の具現化。「生き残った人間がショッピングモールに立てこもる」といった映画お約束のシーンでは大量消費社会を皮肉り、果てはゲームやアニメでの萌えキャラ化……。鬼滅人気のワケに迫る前に、ゾンビが他の怪物と比べてもなぜこんなに多義的な役割を担っているのか、教えてください。

 まず「もともとは人間で、人の形をしている」点が大きかったのでしょう。ターミネーターのような機械はそもそも生物でなく、エイリアンも人間ではない。(パニック映画常連の)サメや熊、ワニなど凶悪な動物も、人間じゃない。他のいろんなモンスターとゾンビとは差別化できます。

 一方で吸血鬼になると、かなり人間に近い存在です。しかし彼らは強く能力的にも優れており、しかも意思を持って能動的に人間を襲います。意図がある存在であれば、それを(人間サイドも)読み取ることができますよね。しかし、ゾンビはとにかく人を食おうと襲ってくるだけで、人(の見た目)なのに何を考えているのか分からない。能動的なようで、実は“消極的”な存在なのです。

 この、ゾンビの「ぼんやりして意思が無い」部分に人はいろんなことを考え、投影するのだと思います。さらに、ゾンビはよく「群衆」として描かれますよね。吸血鬼は「ドラキュラ伯爵」の存在が大きい。同じくルーツが近く似ているキョンシーも、映画「霊幻道士」の印象が強い。

――ゾンビだけは特定の有名キャラが少なく、固有名詞で呼ばれないのですね。

 ゾンビは没個性で匿名的、つまり「誰でもなるかもしれないモノ」として描かれてきたのです。ハロウィンでのゾンビ仮装の人気が分かりやすい。誰でもなれるからです。吸血なら牙やマントなど「普段と違う物」が必要ですが、ゾンビはせいぜい血のりを付けて白目をむき、「アーッ」とうめけばよい。そこが「ゾンビ」というイメージの非常に面白く、またユルユルである所以です。

 ハロウィンでゾンビのメイクをしている高校生に、ジョージ・A・ロメロ(ゾンビ映画の巨匠)について聞いても(大半は)知らないと思います。どこでゾンビものを消費したのかすらよく分かっていないはず。特定の作品というよりは、「バイオハザードシリーズのゲーム実況を(ネット動画で)見た」程度かもしれません。逆に言えば、いろんな世代の人が共有できるモンスターでもあるわけです。

 だから我々は、ゾンビを「いろいろな恐怖の比喩」として考えることができるのです。特に最近のテーマは「他者・他人」でしょう。ここ最近のゾンビ作品では、「我々とちょっと違うかもしれない人たちへの恐怖」というテーマが多い。

 例えば、最近見た映画では『CURED(キュアード)』が面白かったです。これはゾンビパニックの「後」の話なのです。ウイルスが蔓延、パニックになった後に治療法が見つかり、ゾンビが人に戻る。この世界には「一度もゾンビに噛まれなかった人間」「ゾンビ」に加え、「キュアード」という(治療でゾンビから人に戻った)「間」の存在が出てきます。彼らが悲惨なのは、誰を殺したり喰ったりしたかという記憶が残っていること。せっかく人に戻れたのに、人間サイドから「お前らのせいでうちの父が死んだ」などと言われ、迫害が始まる。

岡本健さんの研究室。ゾンビ映画のビデオやDVDなど300点強が並ぶ

ゾンビ映画が描く「他者と排除の問題」

――コロナ禍の、感染者に対する差別や社会の分断を想起せずにはいられません。

 人間はキュアードに対して「おまえらまた人を襲うんだろ」などと言ってしまう。人間サイドは自分たちが被害者だということで、相手(キュアード)を攻撃するのです。コロナ禍における“自粛警察”とよく似ています。一方でキュアードには「もうゾンビに襲われない」という一種の特殊能力がある。そこでキュアード内でも極端な人々が、ゾンビを解放するテロを起こすことに。みんなそう(ゾンビに)なりたくないのに、悪意の伝播で社会はめちゃくちゃになる。本当に、今の我々の(体験しつつある)恐怖の1つでもあると思います。

――確かにコロナのような感染症による社会の混乱は、ゾンビもののシチュエーションとそっくりですね。

 ゾンビ映画では「誰が感染しているか分からず、感染していない人が殺される」状況がよく描かれます。いわゆる魔女狩りですね。新型コロナでもいっとき、アジア人が欧米で「コロナ」と呼ばれ暴行された事件と似ています。こうした他者と排除の問題を、ゾンビ映画はよく描いてきたのです。

 感染症だけでなく、例えば認知症などでも人は変わったように見えますよね。僕も以前うつ病になったとき、妻から「普段は元気だったのに、笑顔もないしやる気がない」と言われました。きっと彼女は怖かったと思います。逆に僕だって、お店で凄く怒鳴っているお年寄りを見ると「何なのだろう、怖いな」と思ってしまう。我々は、こうした他者を「自分たちの理解できない何か」だと見てしまうのです。

――我々もまた、そうした一見理解できない「他者」になる可能性がいつでもある、という訳ですね。ゾンビコンテンツはこうした現実社会への問題提起、ひいてはある種の「予言」として機能しているように思えます。

 例えばTwitterで「コロナで起きていることはゾンビ映画でもよく見たよね」とよく言われていましたが、僕も同感です。ただ、フィクションというものはそもそも現実を模倣して作られています。その“回路”があるので、現実に似ているのはその通りなのです。超未来のSF的な話であっても、今生きている人間が作るのであれば、彼が生きている社会を模倣することになるからです。

 一方で、現実がフィクションを模倣することも出てきます。ドラえもんや鉄腕アトムを見てロボット工学を志した人もいるでしょう。まだ見ぬロボットの設計に、ドラえもんを参考にすることもあるかもしれません。フィクションと現実はお互いに影響し合うもので、一方通行ではないのです。

「鬼滅の刃」は「アフター決断主義」

――そこで、コロナ禍前からヒットしてはいましたが、やはり「鬼滅の刃」が今このタイミングにおいても幅広い世代から支持を集め続けているのは示唆的な気もします。まずはゾンビものにも通じる「他者性」から読み解いていただければ。

 本作は主人公・竈門炭治郎が家族を鬼に食い殺されるところから始まります。こんなにひどい目にあって、それでも彼は世界に対する優しさを忘れない。(人を鬼に変えるボスキャラの)鬼舞辻無惨にはメチャクチャ怒りますが、彼によって鬼にされた人には慈悲の心を向けます。

――『大学で学ぶゾンビ学』で岡本さんは、ゼロ(2000)年代のコンテンツで頻繁に登場した、「登場人物が生き残るため苛烈な決断を頻繁に強いられる」決断主義という概念と、鬼滅の世界観を比較しています。本作で描かれる残酷な鬼と人との戦い、加えて命懸けの判断を幾度も迫られる炭治郎の境遇は、一見決断主義的ですが。

 確かに鬼滅は鬼の首が飛ぶような残酷シーン、展開の速さなども人気の理由としてよく挙げられていますが、僕はそこではないと思います。例えば、『約束のネバーランド』(白井カイウ、出水ぽすか、集英社)の方が(決断主義の代表作とされた)『デスノート』的な、世の中の残酷さを強調する作風を引き継いでいると思いますね。

 鬼滅は一見、バトルロワイヤル的な世界を描いています。でも、実は全部「鬼という性(サガ)」が悪いのです。ボスの無惨のような特定の誰かというよりも、「鬼という現象」が一番の悪なのですね。炭治郎の妹、竈門禰豆子だって鬼になってしまう訳ですし。

 この作品は、実は圧倒的な悪役がいるというよりも、割と群像劇なのだと思います。そして、「鬼になるという現象をどう止めるか」という意味で、とてもゾンビものっぽい。

 僕は鬼滅の刃について、「アフター決断主義」の作品だと思っています。決断主義的な(残酷で生き残りに必死な)世界を描く一方で、実はどう「決断主義的じゃない世界を作れるか」という話。そして結局、炭治郎の他人への異常な優しさや信頼が、人を動かしていくわけです。

――敵の鬼ですら、炭治郎に殺される間際に彼の思いやりに触れ、救われるシーンが印象的です。

 他にも、ド変人しかいなかった「柱」(炭治郎が所属する鬼と戦う組織「鬼殺隊」の最強メンバー)たちが、「炭治郎のためならしてやってもいいかな」と、他人のために動くようになっていく。こうした、「利他的であることが回りまわって自分のためになる」ということを、すごくうまく描いたのが鬼滅なのです。無論、それだけなら「単なるいい話」になりがちです。しかし鬼滅の世界はここまで残酷で、あんなに優しい炭治郎はそれでも鬼を殺すことを止められない。このバトルロワイヤルを何とか止めようとする話、と言えるのでしょう。

コロナ後のフィクションと現実の関係は?

――まさに「フィクションと現実は影響し合う」という言葉の通り、他者との距離感や恐怖の制御が求められているとも言えるコロナ禍において、鬼滅はちょっと特別な意味を獲得した作品のような気もします。

 鬼滅が示す(現実への)解決策があるとすれば、炭治郎の「優しさ」というモノが人間社会にとって切り札になる、と言うことではないでしょうか。それをベースに社会を作っていくことで、多くの人が納得できるものになり得る。コロナという、(感染者を)排除しなくてはいけなくなるかもしれないこの社会で、僕らは鬼滅から学ぶことで、炭治郎の優しさをコアにしていかなくてはいけない。何でもスパスパと切り捨ててしまってはいけないのではないか。

――炭治郎も、鬼になった禰豆子を最初から絶対に見捨てませんでした。

 (鬼滅の「鬼」と同様に)ゾンビとは、相対した人間が殺すのを「躊躇」することもある存在です。「感染したのはこの人のせいじゃない」「この人は治るかもしれない」、と。躊躇した結果、ゾンビに襲われてしまうシーンもありますが……。こんなモンスターはあまりいませんよね。

――他者を「ヒト・ゾンビ」、つまりは敵味方で安易に分別し切り捨てることへの疑念がそこにはあるのですね。

 あと最後に、今回のコロナ禍の後でゾンビ映画そのものも変わるのではないか、と思っています。日本では原発事故の後で映画『シン・ゴジラ』が出てきました。「〇ミリシーベルト」といった言葉は、あの事故が無ければ僕らはなかなか理解できなかったでしょう。あれだけ原発のニュースが流された結果、本作は成立しました。同様に、今後描かれるウイルスパニック系の映画はコロナの影響を受けると思います。やはり、フィクションと現実は影響し合うものなのです。