1. HOME
  2. トピック
  3. 関ケ原の前哨戦「小山評定」は史実か 家康支持の軍議めぐり研究活発

関ケ原の前哨戦「小山評定」は史実か 家康支持の軍議めぐり研究活発

「小山評定」は現在の小山市役所にあたる場所で行われたという。現地には碑が残る

 小山評定をめぐる謎の一つが、7月25日とされる評定の後、「石田を討つ」と決した軍勢が西上したにもかかわらず、家康自身は8月4日まで小山を動こうとしなかったことだ。

宇都宮と往来?

 その理由については従来、「西国からの詳報を待っていたのでは」などとされてきたが、江田郁夫・栃木県立博物館副館長はこのほど、家康はずっと小山にいたのではなく、三十数キロ離れた宇都宮との間を行き来していたのではないか、との仮説を発表した。

 江田氏がその傍証としてあげるのが、関ケ原合戦から5年後の1605年に家康が宇都宮大明神(現在は宇都宮二荒山神社)を再建していることだ。宇都宮二荒山神社には、家康の名前と征夷大将軍という官職名が刻まれた建立時の擬宝珠(ぎぼし)(手すりの柱に取り付けられた飾り)が今も残る。

 「家康は小山評定の後、上杉攻めの本営である宇都宮城に移動し、軍勢が西上した後の上杉対策について協議していたのでは。その際、宇都宮大明神に戦勝を祈願したとすれば、5年後に礼として社殿を造営したのも納得できる」と言う。

 小山評定は、これまで天下分け目の重要な軍議と位置づけられてきた。

 江戸中期の軍記物『関原軍記大成』などが語る、評定の流れはドラマチックだ。小山市のHPも「尾張国清洲城主の福島正則が家康のために命を投げ出すことを誓い、続いて遠江国掛川城主の山内一豊が、『家康に城を明け渡してまでもお味方します』と進言しました。一豊の建議が諸将の気持ちを動かし、家康支持で固まったのです(略)こうして、家康率いる東軍は、石田三成を討伐するため西上することに決したのです」と記す。

後世の創作説

 一方でこれらの通説に対する疑念も示されてきた。高橋明氏は2011年の論文「奥羽越の関ケ原支戦」で、「7月23日、家康は豊臣政権三奉行の連署状を受け取り、ただちに(最上)義光に宛てて上杉攻撃の中止を命じ、上方の諸大名には近日の上洛(じょうらく)を告げた」として、山鹿素行の「武家事紀」などで25日の小山評定で上洛を決めたとしているのは誤り、と指摘した。

 学界に旋風を巻き起こしたのが、白峰旬・別府大学教授の12年の論文「フィクションとしての小山評定――家康神話創出の一事例」だ。1600年7~8月に、家康や同行した武将が発給した書状に小山評定に関する言及がないことや、家康が諸将に小山への招集を命じた書状が見当たらないなどの理由から、小山評定は「一次史料では(略)その存在が確認できず、はなはだ疑わしい“非歴史的事実”になってしまう」と断じた。家康が豊臣系の武将から信望が厚かったことを示すため、後世に創られた「神話」だというのだ。

 反発は激しかった。中でも本多隆成・静岡大学名誉教授は論文「小山評定の再検討」(12年)などで、武将・浅野幸長の書状に「諸将の間で談合があり、会津への軍事行動が延期された」と書いてあることなどを根拠に批判を展開した。

 対して、白峰氏も、浅野の書状の記述は、諸将の談合の内容を勘案し、家康が自らの軍事指揮権に基づいて上杉討伐の延期を決めて諸将に命じたという意味だと反論。その後、他の研究者も論争に加わり、議論は深まりを見せている。

 江田氏が示した家康の戦勝祈願説について、笠谷和比古・国際日本文化研究センター名誉教授は「あり得ることだと思う」と語る。

 一方、白峰氏は「家康が宇都宮城に在陣していた可能性は高い。ただし、戦勝祈願に関しては、家康がそれを行ったと記した史料が見つかるかどうかが問題だろう」と話している。
 (編集委員・宮代栄一)=朝日新聞2020年8月19日掲載