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上杉謙信は「義の武将」にあらず? 近年の研究で見えた実像は

上杉謙信像(一般財団法人太陽コレクション蔵)

寺社焼き打ち・言い訳して侵略…人間臭い当主

 先月出版された『謙信襲来』(能登印刷出版部)は、越後を本拠とする謙信に侵攻された北陸側の視点から謙信の実像をとらえる。著者の萩原大輔・富山市郷土博物館主査学芸員が、越中・能登・加賀の3カ国について、謙信が焼き打ちを行った伝承が残る寺社を集計したところ、147に及ぶことがわかった。

 「本当に神仏を敬っていたなら、これほど寺社を焼くはずがない。謙信に関しては、そのエピソードの多くが『神話』だといっていい」

 萩原さんによると、謙信にとって、あれほど主張した「義」もスローガンに過ぎなかった可能性が高いという。その論拠が、1570年12月に書かれた神仏への奉じ文だ。謙信はそこで「越中へ馬を出し(略)、越中存じのまま、一篇に謙信手に入れ候わば明年の一年は必ず日々看経(かんきん)申すべく候なり」(越中へ攻め込み、思い通りすべて手中に収まるのであれば、年明けの一年間は毎日欠かさず経を読みます)と誓っている。

 実際、翌71年3月に謙信は越中へ出兵するが、能登畠山氏にあてた当時の手紙では「長職(ながもと)色々と歎(なげ)かれ候間、図らずも出馬」(地元の武将である神保〈じんぼ〉長職に嘆かれ救いを求められたので、やむを得ず兵を進めた)と言い訳している。「神仏に越中出兵を明かしつつ、入念に戦いの準備をし、人助けを名目にして、侵略のための兵をあげる。謙信は『義を重んじるふりが上手な武将』だったのではないか」と萩原さん。

「敵に塩」確認できず

 謙信の実像を問い直す歴史書の出版が急増したのはここ数年のことだ。

 先駆となったのは研究者で編集者でもある石渡洋平さんの『シリーズ 実像に迫る 上杉謙信』(戎光祥出版、2017年)だった。

 ビジュアル中心の入門書だったが、甲斐の戦国武将・武田信玄との川中島の戦いでの一騎打ちのエピソードが虚構であることや、敵に塩を送ったエピソードが同時代の史料では確認できないことなどを指摘。歴史学者の藤木久志氏が『雑兵たちの戦場』(1995年)で説いた、謙信は越後の食料不足解消目的で、食うために出陣していたとの説を引きながら、義の戦争をしていたとの従来説に疑問を呈した。

 一方、2017年刊行の福原圭一・前嶋敏編の研究書『上杉謙信』(高志書院)では、12人の専門家が謙信と城などのテーマごとに謙信研究を可能な限り掘り下げた。

 続く2018年には、歴史ライターの今福匡さんが『上杉謙信 「義の武将」の激情と苦悩』(星海社新書)で、従来の謙信像をひっくり返した。同書では史料に基づき、怒りっぽく、かつ時に大喜びするなど感情の起伏が激しいため、腫れ物に触るように家臣たちから接せられる、孤独な謙信の姿が描かれた。

無理せず冷静に行動

 こうした分析の背景には、謙信に関する史料が、「大日本古文書」の上杉家文書や「新潟県史」「上越市史」などの形で比較的早くから紹介されており、研究がしやすい面もあったといえそうだ。

 今年8月末に、日本歴史学会編の吉川弘文館の人物叢書『上杉謙信』を出版した山田邦明・愛知大教授は、書状の検討から、謙信の実像を「決して無理をせず、状況を見据えながら、自身や家臣が損をしないように冷静に判断して行動する」などと分析する。

 義の武将としての謙信像は江戸時代に流行した武田信玄ゆかりの甲州流軍学に対抗して、越後流軍学を標榜した軍学者や米沢藩上杉家などが美化・強調したものらしい。

 近年の研究は、謙信のそんなめっきをはがした。

 しかし、そこに表れたのは「悩み苦しみながら(略)当主の役目を果たそうとした(略)人間臭い人物だった」と石渡さんは書く。今後は英雄ではない、そんな等身大の謙信の研究こそが望まれるのではないだろうか。(編集委員・宮代栄一)=朝日新聞2020年10月7日掲載