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藤巻亮太の旅是好日 「ザリガニの鳴き声」が聞こえる場所とは

文・写真:藤巻亮太

 緊急事態宣言が明けて間もない頃、運動不足も続いていたので私は都内をあてどもなく歩いていた。たまたま立ち寄った本屋でバッタリと知人に出会った。この「旅是好日」の編集を担当してくれている加藤さんだ。外出自粛の長い期間、そのほとんどを家で過ごしてきており、偶然にも知人に出会えて驚きとともによもやま話に花が咲いた。本や映画や料理と世情、お互いどんな風に過ごしていたのか話題は尽きない。そんな会話の中で加藤さんが紹介してくれたのが今回の『ザリガニの鳴くところ』だ。2019年にアメリカで一番売れた本であると教えてくれ、その感想は「とても面白かったので藤巻さんも読んでみたらどうですか」と淡白なものだった。ただあえて細かい内容に触れずにお薦めされたことの意味を読書後に知ることとなる。私はその場で購入して読み始めることにした。

カイアという少女の物語

 『ザリガニの鳴くところ』の舞台はアメリカのノースカロライナ州の湿地帯。1969年のある秋の日の朝、チェイス・アンドルーズという青年の死体がその沼地に横たわっている場面でこの物語ははじまる。そしてすぐさま舞台は1952年へと切り替わる。ここに登場するのがその時6歳のカイアという少女だ。彼女の成長を追い物語は展開していくが、湿地の厳しさがメタファーとなるように家族が離散してゆく彼女の境遇はあまりに過酷である。しかし同時に愛情深く彼女に関わる人々も登場してくる。それらと並行してチェイス・アンドルーズの死の謎を追う二人の刑事の捜査が進行して、二つの時間軸はやがて一つの物語へと収束してゆくのだ。

母なる存在としての湿地

 この小説のトーンに大きく影響を与えているのが湿地という場所だ。この言葉の語感からはジメジメして鬱蒼と草が茂り近寄り難いイメージがある。あまり人が住むには適さない場所であり、この限られたエリアにあえて住む人々の生活からは独特の閉塞感が漂う。そこで形成される小さなヒエラルキーが息苦しさを増長させているが、これはアメリカ社会が孕む差別や偏見の問題に端を発しているようだ。

 しかしカイアから見た湿地は全く別のものとして描かれている。そこはあらゆる生命の息吹に満ちていて、夜には満点の星が語りかけ、孤独なカイアを包みこんでくれる。湿地は彼女にとって母なる存在なのである。この湿地が持つ陰と陽の相反するコントラストが不思議な引力となり物語を導くのだ。

湿地を流れる時間

 そしてもう一つ。小説の構造として章ごとに異なる時間軸のパズルが徐々にハマってゆくような読み味があるのだが、このことが私に響くポイントになった。日の光の中を過ぎる時間と暗い闇の中を過ぎる時間とは違って感じるように、幸せや孤独、人の心の感じ方次第で時間の質感は変わってくる。最後まで読み切った時には時間というものの重みが迫ってくるように感じた。

 私は最近とある番組のロケで尾瀬に行った。ノースカロライナとは全く違う景色であるには違いないが、湿地を歩きながら『ザリガニの鳴くところ』のことを思い返してみた。ザリガニの鳴き声が聞こえるくらいの深い湿地の奥とはどのような場所なのだろうか。その声は本来聞くべきものなのか、その声が聞こえてしまうような深い孤独を思うと胸が苦しくなったのだ。

 結局のところ私はこの小説をどんなジャンルにわけてよいのか分からなかった。ただ、一つのポイントに腰を据えて読み進めると別の味わいが出てくることだけは確かで、カイアの生き様に思わず手を合わせて彼女の幸せを祈るように読み進めていった。そして、担当の加藤さんがあえて細かい内容に触れずにお薦めしてくれた意味を知ったように思うのだ。私もこの小説の魅力を少しでも伝えられたらと思い、余計な先入観を残さぬように用心してこのコラムを書いたつもりだ。