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明け方の至福の時 湊かなえ

 二十代の一時期、デパートに勤務していました。定休日は木曜日。予定のない場合、前日の水曜日は、休憩時に館内の書店に行き、文庫本を一冊購入するのが常でした。帰宅して、食事や入浴を済ませ、布団に入って本を広げれば、至福の時の始まりです。

 そのほとんどがミステリ小説で、謎解きをしながら夢中で読み進め、やはりこの人が犯人だったのか、と悦に入ったり、やられた、と心地よい敗北感を抱いたりしながら、本を閉じるのが、午前5時か6時頃。遮光カーテンじゃない部屋は、電気を消してもかなり明るくなっていて、外からは、鳥の鳴き声だけでなく、人が動き始める音も聞こえてくるけれど、自分はこの興奮と疲労が混ざった状態の中、そのまま寝てもいいのだと、贅沢(ぜいたく)な気分に浸りながら目を閉じる。起きるのは午後3時過ぎで、カップラーメンを食べながら、残りの休日の過ごし方を考えつつも、だいたいは洗濯や買い物などの家事で終わり、明日からまた仕事だな、と夜を迎える。

 先日ふとした瞬間に、この体験をしたくなり、日はすでに暮れていたので書店には行かず、「いつか読みたい本」の箱から一冊選ぶことにしました。読書ペースが格段に落ちているため、薄い本を探します。

 選んだのは、心理ミステリ随一の鬼才、アメリカの女性作家マーガレット・ミラー著『悪意の糸』。30歳の女医シャーロットが、診療所に若い娘が訪れたのを機に、人々の悪意にからみとられていく物語です。舞台は1949年、(私の)ばあちゃんより年上! と驚きながらも、地位や名声を手に入れ、価値観の合う恋人もいる、満たされた主人公に向けられる世間の悪意は、SNSを介さないだけで、現代社会の中に溢(あふ)れかえっているものと同類です。人間の普遍性、と言えば聞こえはいいけれど、技術は進歩しても、人間そのものは変わらないということか。明け方、そんな余韻を噛(か)みしめるのは、まさに至福のひと時でした。=朝日新聞2020年11月18日掲載