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なりたかったもの 澤田瞳子

 不動産情報が大好きで、よく折込(おりこみ)チラシを見たり、買う予定もない物件検索をしている。多忙な時ほど、逃避の如(ごと)くますます検索に熱が入るのだが、対象の地は現在暮らす京都、生涯に一度は生活したい札幌、学生の頃から憧れの長崎。それに東京だ。

 東京に住みたい欲求は薄いものの、登録物件数が桁違いに多く、気になる物件に出会いやすいため、つい検索範囲に入れてしまう。壁一面に書架を備えた家にはいいなあとため息をつき、大好きな吹き抜けのある家を見ると嬉(うれ)しくなる。一度なぞ能舞台が設置された豪邸に行き当たり、興奮して能楽仲間に教えて回った。もちろん、皆でお金を出し合っても手が届く額ではなかったが。

 もしかしたら違う職業についていたかも、という漠然とした推測は、誰しも抱いているだろう。不動産業は私にとってその筆頭で、大学院に進まなかったら、一番にこの業界を目指した。これは比較的、実現可能性の高かった未来と思う。

 では反対に実現可能性が限りなく低かった希望職はといえば、ただ一つ。幼い頃から大好きな水族館の職員だ。実は大学院を飛び出した後、本気で飼育員を目指そうと生物学部や海洋学部のある大学の受験を計画していた時期がある。結局は頓挫し、歴史小説を書き始めたが、それでも暇があるとこれまたつい、水族館関係の募集を検索してしまう。もちろん、どんな募集も未経験の身では応募しようはないが、その際にまだ訪れたことのない水族館を知り、後日、旅先に選ぶことも頻繁だ。

 ただ自分が小説を書かず、不動産業界や水族館に身を置いていたら、反対に歴史小説についてあれこれ調べ、「へえ、こんな作品があるんだ」と感じただろう。そう考えると実現しなかった夢は雲散霧消するのではなく、憧れに形を変えて人生に伴走し、日々を彩るのかもしれない。つまり、時に仕事時間を脅かす物件検索もまた、人生の大事な時間なのだと言い訳しながら、今日もついつい不動産情報を見てしまっている。=朝日新聞2021年1月27日掲載