1. HOME
  2. コラム
  3. 大好きだった
  4. 千早茜さんの記憶の中の犬たち 子供の私を守ってくれた頼れるきょうだい

千早茜さんの記憶の中の犬たち 子供の私を守ってくれた頼れるきょうだい

「犬派? 猫派?」というありがちな質問に「犬かな。犬しか飼ったことがないから」と答えてきた。犬の、気のいい感じが好きだ。初対面でもぱたぱたと尻尾をふって、全身で笑ってくれる犬に出会うと幸せな気分になる。

 けれど、最近ふと考えてしまった。道端で挨拶してくれるよその家の犬と、記憶の中の犬が違うように感じる。そもそも、私が犬を飼っていたのは家族と住んでいた頃だ。世話はしていたが、自分の稼いだお金で犬を飼ったことはない。一家の大黒柱は父で、私も犬と同様に父に養われている身分だった。犬を飼っているのは父で、私はその犬で遊ばせてもらっているだけだったのかもしれない。

 初めて犬と接したのは、まだ二、三歳の頃だったと思う。ときどき預けられていた穏やかな老夫婦の家に狆(ちん)がいた。白と黒の、長い優雅な毛の小型犬だったが、私も小さかったのでそう小さいとは思わなかった。それどころか、お姉さんっぽく見えた。犬はその家の子供のような振る舞いをしていて、私は少し気圧された。けれど、小さな私が怪我をしないようにいつも見守ってくれていた覚えがうっすらとある。

 その後、家族でアフリカへ行き、広大な敷地で数匹の犬を放し飼いした。シェパードと、ローデシアンリッジバックという日本では見たことがない大型犬だった。ライオン狩りに使っていたといわれるその犬種は勇敢で、怒ると背の毛がたてがみのように立った。彼らは番犬として飼っていたので、常に私たちを守ってくれた。敷地内のパトロールを日課にし、強盗には襲いかかり、見知らぬ人が来ると威嚇した。炎天下の昼間、木陰で昼寝をする犬たちを探し、胴体に耳をくっつけて寝転がるのが大好きだった。日本から遠く離れた異国で、彼らの心臓の音は安心をくれた。犬たちは絶対に私を守ってくれる。そう信じていたし、今までの人生でそんな風に信じられた存在は彼らしかいないように思う。帰国してから飼った犬もとても気の優しい子だった。

 けれど、思い返してみると、犬たちは父の前では顔が違った。世話をしているのは私でも、父を前にするとぴしりとし、敬うような態度を見せた。獣医の父は犬種の特性をよく理解していて、威厳を持って躾けていたせいかもしれない。

 群れで生きる狼を祖先とするせいか、犬は関係性に敏感だ。家族という群れの中で、子供だった私は弱かった。でも、主人である父の大切な存在なのだと犬たちは見抜き、それ故に甘やかし守ってくれていた気がする。記憶の中の彼らは頼れるきょうだいのようで、思いだすと胸が苦しくなる。

 今、私は自立した大人だ。もし犬を飼ったら、その犬は私を主人として見るだろう。それは、小さい頃との犬との関係性とは少し違ってくるような気がする。いつか、主人として犬と信頼関係を築き、守り合って生きてみたいと思う。でも、悪戯したり転んだりする子供の私のそばで、「ああ、もう仕方ないなあ」と困ったような顔で尻尾をふる犬たちの顔も忘れがたいのだ。