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佐藤雅彦さん「考えの整頓 ベンチの足」インタビュー 表現の礎にある「妙」

撮影:STUDIO DUNK

「理」を超えたものへの関心

――本作は「心のどこかに引っかかってきた不明なもの」を明らかにしていった『考えの整頓』(2011年)に続く第2集ですが、どのように執筆されたのでしょうか?

  「暮しの手帖」は2カ月に1回出る雑誌なので、そのあいだに起こった、自分の心が動かされたことを書きました。日常の中には忘れられない大きな驚きもあれば、自分でもすぐ忘れてしまうような小さな感動もあります。丁寧に自分の近況を探りながら、今まで体験したことのなかった心の動かされ方を拾いあげました。

――今回は「筆の重い自分をして、毎回、文章を書かせてくれたのは、沢山の『妙』」だったと表現しています。「妙」とは何でしょう?

 僕がこれまでやってきたのは、「理」を通して不可解さを解くことだと思っていました。ある難しい概念にいろいろなメディアデザインを施して、みんなが「あ、そうか!」と分かることですね。

 たとえば NHK教育テレビの「ピタゴラスイッチ」や『経済ってそういうことだったのか会議』(竹中平蔵さんとの共著)も、理を知ることで世の中に明るくなること、自分の将来が見えてくることを意識して作っています。

――視聴者や読者が主体的に考えるようになるものをつくりたいとおっしゃっていましたね。

 僕は慶應大学の佐藤研究室を立ち上げた時(1999〜2006年)から、表現に関しては「エンターテインメントからインタレストへ」ということを標榜してきました。エンターテインメントは、時間潰しやおもてなしなど、時間を何かで埋める感じですね。ところが若い人に、そんなことで一生を終えてほしくないなと思ったんです。やっぱり主体的に自分の人生をつくる。自分の関心があるものを追求する。つまり、インタレストを持つことが必要ではないかと考えてきました。でも、自分がやってきたことは本当にそれだけで言い得ているのかな、と疑問がずっとあったんです。

 ある時、脳科学者の茂木健一郎さんが東京工業大学の授業で僕を講師として招待したことがありました。茂木さんは僕の作るものをじっと見て「佐藤先生の作品は何か呪術性がありますね」と言ったんです。僕はそういうことから遠い人間だと思っていたので驚きました。でも茂木さんはそれを看破したんですね。

 僕は1989年ごろ、TVコマーシャルの分野から表現の世界に入りました。たとえば、湖池屋の「スコーンスコーン、コイケヤスコーン♪」「ドンタコスったらドンタコス♪」のCMなどがそうです。そのフレーズを聞くと、なんかちょっとだけ感覚を麻痺させて、画面を凝視させますよね。インタレストで興味を引かせるだけでなく、もうちょっと魅了されるミステリアスなものをつくっていたんだと、改めて気づきました。人は理だけでは語れないものに関心があるんだと思いました。

――あとがきではカンヌ国際映画祭の批評家からも「妙」だと言われたというエピソードがありました。

 東京藝大の佐藤研究室の卒業生と短編映画をつくっていて、カンヌ国際映画祭短編部門に2度、正式招待されたりしているんです。それでカンヌ事務局の映画批評家のトップが、私たちの作品に非常に関心を持ってくれていまして。来日した際には、親切にもコンタクトをくれて、「作品を見せてくれ」と言うんです。ただ去年、コロナの影響で来られなかったので、Zoomで見てもらうことになりました。そこで私はどうしても尋ねたいことがひとつありました。

 その作品は市川実日子さんが主演でした。刑務所の中にある美容院の話です。市川さんが演じる女性は、何か重大な罪を犯して刑務所の中にいる。その更生のプログラムのひとつとして、職業訓練に美容を選んだんですね。品行方正と判断された人たちは、そこで外のお客さんの髪を切ることができました。値段も安く腕もいいからと、近所のお婆さんたちがよく切りに来ている。でもある時、場違いな男の子がやってきます。彼女はその子と会話をしながら髪を切る。ところが最後に彼が帰った後に、看守の目を盗んで、床に散らばった髪をある方法でそっと身に隠すんです。

 僕は「これはもしかしたら男の子が彼女の子どもかもしれない」とわかりやすく示しすぎるな、と思いました。市川さんの演技が本当に素晴らしかったのでそのカットを入れていましたが、外すべきかどうか決めかねていました。

 そこでカンヌの批評家に見せて「このカットは余分ですか?」と聞いたんです。すると一言「intrigued!(イントリーグド)」と言ったんですね。僕は初めての言葉だったので、通訳の人にどういうことか聞いたんです。すると「何か興味をそそられた」「どこかミステリアスなものを感じる」「『妙』でいい感じ、ってことかな」と言ったんですね。それで批評家は鑑賞者には当然必要なシーンだと断定しました。

 その時にすごくよく分かったのが、人が一番求めているのは、何かの答えではなく、何かに強く惹かれることだということでした。長年携わってきた教育においても、重要なのは、答えを与えることではなく、強く惹かれて自主的に、自分の力で答えを見つけるようにすることです。

 あとで辞書を引くと「intriguing」は「intricate(入り組んだ、複雑な)」と大元の語源が同じだとわかりました。綾が入り組んだ「妙」できめ細かい感じですね。その「妙」なものを、自分は表現の礎にしていたことがわかりました。

森繁久彌さんの「妙」な話

――文章ではどのように「妙」を描くのでしょう?

 読者に同じ体験をしてもらいたいと思いますね。たとえば、本書の最後に入れた随筆「名優のラジオ」。僕の出身は静岡の戸田村(現・沼津市)という小さな漁村なのですが、そこでは昭和40年にマリアナ沖の台風で大きな遭難事故があって、遠洋漁業の漁師たちがたくさん亡くなりました。

 ある時、俳優の森繁久彌さんがラジオに出演して戸田の話をしていたのを急に思い出しました。聞いたのは40年ほど前の僕が大学生だった頃です。彼は戸田によく白いヨットで来ていて、子どもたちは見つけると「もりしげが来てるよ!」と騒いでいました。

 ラジオの話によると、彼は夜、ヨットのデッキでウイスキーを飲んでくつろいでいた。すると、ひたひたと不思議な音が聞こえる。だんだんとはっきりした音になってきて、誰かが泳いできたことがわかった。よく見たらひとりの青年がヨットの真下まで来ています。

「森繁さんかい」
「そうだよ、お前は戸田の漁師か」
「そうだよ。おれ、あんたに話したいことがあるんだよ。上がってもいいか」

 すると青年はマリアナ沖の遭難について不思議な話をするんですね。

「焼津や御前崎の船も合わせて、200人以上の人が亡くなっただよ、台風にやられたさ。一番ひどかったのが、戸田の船さ。弁天丸、永盛丸、金刀比羅丸と遠洋の船が三隻沈んだよ」。思わず黙ると、こう続けるではありませんか。「そんなにも多くの人が帰らぬ人になったんだけど、その中に何十時間も漂流して戻った人間が僅かにいるんだよ」。そうなのかいと声を上げると、「この俺がその生還者の一人だよ」と言うではありませんか――。

 この森繁さんの話を急に思い出したんです。それで僕はその漁師に会いたくなったんですね。なぜかと言ったら、漁師が夜、どうして森繁さんのヨットを目がけて泳いでいったのか理由が突然わかったからなんです。死と背中合わせの漂流の末に知り得た、ある不思議な力を、沖合に浮かぶ非日常のなかで話したかったんだと思いました。それを本人に問いただしたかったんですね。当時の新聞を調べると、生き残った漁師が2人いるとありました。僕は1人ずつ実際に会いに行ってインタビューをしたんです。すると、「妙」なことがあったんですね。

――「妙」なこととは?

 遭難した2人に会っても「俺、森繁さんに会ってないよ」と言う。それで「もうひとりの Yさんじゃないの?」と教えてもらいました。実は新聞を改めて見ると、2人が救助されているんですけど、数日後にもう1人助かっていたんです。僕はその人に会いに行きました。この人こそ森繁さんに会ったんだと思って尋ねると、じっと僕の顔を見て「俺はそんなことしてないなあ」と言うんです。

 すごい「妙」だなと思うんですよね。こんな真面目で純朴な漁師が嘘をつくとは思えない。森繁さんはすでに亡くなっていて、確かめることはできないけれど、ラジオでは、生還者のひとりと会ったと話していた。森繁さんと会った若い漁師は誰なんだろう、と思いました。得体の知れないミステリアスなものを感じました。必ず何かがあるんですよ。

私は、実は今、ひとりの人を疑っている。戸田の人ではないその人は、聴衆を引きつけるために、当意即妙に脚色を行った。そして、戸田で見聞きした三人の生還者にまつわる話を再構成し、ある劇的な話を創り上げた。でも、それは、この世界には人間の思惑を遥かに超えた力が存在することを分かってほしいという、その方なりの思い故であった......と信じたい。そう思っている。

――読んでいてワクワクして、どうなるんだろうと感じました。

 このように、事件が起こったわけじゃないけれど、謎を解き明かすんですね。そういう書き方にすると、読者が同じように体験します。これは実は映画のつもりで文章を書いているんです。先生がちゃんといて、「砂の器」や「七人の侍」の脚本家・橋本忍さんの手法に近いですね。

 たとえば、先の森繁さんがヨットの上で漁師と会った話のすぐ後に、僕が小学6年生だった頃の教室のシーンに転換します。急に「今から名前を呼ぶ者は鞄に教科書やノートをしまって、廊下に出なさい」と先生の言葉がくる。映像的に新しいシーンが始まるわけですね。

 これは映画の編集と同じなのです。単純に時系列で丁寧につなげるのではなく、映像がジャンプするんですね。急に回想が入ったりする。鑑賞者の想像力と創作力に期待して、映画を成立させるつくり方です。すると、読者はまるで自分が「妙」な体験をしたかのような気持ちになるんです。

川端康成はメディアデザイナー

――佐藤さんの随筆は唯一無二で他に似ているものが見つからない気がします。影響受けた好きな作家はいますか?

 何人もいますが、皆さんがよく知っている人で言えば、川端康成さんですね。もう本当すごいです。メディアデザイナーでもあるんです。

 たとえば川端さんの代表作の『山の音』。「文藝春秋」や「新潮」などバラバラの媒体に短編を書いていて、それを束ねると1冊の長編小説になっているんですよ。発表したメディアが違うと知って、本当にびっくりしましたね。

 三島由紀夫さんが『伊豆の踊子』の評で「方解石の大きな結晶をどんなに砕いても同じ形の小さな結晶の形に分れるように、川端氏の小説は、小説の長さと構成との関係について心を労したりする必要がないのである」と書いています。結晶がどこを砕いても同じ形であるように、作品のどこを切っても川端さんだということです。『山の音』もまさにそれを体現しています。

 本当に言葉がすごいですね。川端さんは「intricate(入り組んだ、複雑な)」で細やかな文章を書く。非常に綾を織りなしていて、ミステリアスなところがある。読者に新しい体験を与えています。ただそれは読者の読み解く力によりますね。

――具体的にはどういうことでしょう?

 たとえば、『山の音』の冒頭では、主人公が下駄を履こうとする時に、女中が「おずれでございますね」と言うんですね。ずいぶん丁寧な言葉を使うんだなと思ったらしい。しかし、あとから考えてみると、それは敬語の「おずれ」ではなく、いわゆる「緒ずれ(鼻緒に擦れた足の傷)」と言っていただけだとわかるんです。そして東京風のアクセントのわかる息子に確認をする。

「敬語の方のおずれを言ってみてくれないか。」
「おずれ。」
「鼻緒ずれの方は?」
「おずれ。」
「そう。やっぱりわたしの考えているのが正しい。加代のアクセントがまちがっている。」

 これはモダリティ(視覚・聴覚・触覚・嗅覚などの感覚の種類のこと)が違うんです。たとえば、映像や絵を見るのは視覚的モダリティで、耳で聞くと聴覚的モダリティです。

 文字は音のモダリティがありません。ところが読者がここを読むと「おずれ? オズレ?」と自分で心の中や声で読んでしまう。文字に音のモダリティが出てくるんです。大文豪がすごいことをやるなと思いました。

――佐藤さんの創作活動の参考になりますか?

 ものすごくなります。本は基本的に文字情報なわけです。モダリティ的には音も映像もありません。でも僕はメディアのコミュニケーションデザインが専門なので、制約されたメディアの中で普通は表現できないものを使ってコミュニケーションしたいわけです。

 だから「名優のラジオ」も、モダリティが文字だけれど、映像をやってるんですね。こうしたことは、僕は総称して「新しい分かり方」という名前をつけていますが、本書では文章だけで読者にその体験が共有できるようにしました。「新しい分かり方」の「妙」を体験してもらえたらと思います。