1. HOME
  2. コラム
  3. 信と疑のあいだ コロナ後の世界を探る
  4. 時に疑い、信仰は深まる 青来有一

時に疑い、信仰は深まる 青来有一

イラスト・竹田明日香

 長崎を舞台にして、キリシタン殉教などの歴史を背景にした小説を書いてきたせいか、キリスト教の信徒のように思われるらしく、我が家が仏教の家であると話すと意外な顔をされることがあります。

 もしかしたら『沈黙』の遠藤周作のイメージが大きいのかもしれません。日本におけるキリスト教信仰について考えを深め、国民に広く愛され、国際的にも広く知られているベストセラー作家の人気に今さらながら圧倒される思いになりますが、ちょっとばかり困惑もするのです。

    ◇

 私の家は鎌倉仏教で知られる法然、親鸞によって世の中に広められた浄土真宗の門徒で、私が物心ついたころには家に仏壇がありました。父母や祖父母が、毎朝、ロウソクをともして、線香をたいて、鈴を鳴らし、手を合わせるという姿を身近で見てきました。今では私も同じように毎朝仏壇に手を合わせますが、自分の中に深い信仰心があるかと問われたら、信仰とか宗教というよりも家の習俗を受け継いできただけのようでためらうところがあります。

 信仰とは、神仏と対話して、自らの心のありようを照らしだしていくといった一面があるのではないかと思いますが、私の胸には亡くなった父がいます。手を合わせ「南無阿弥陀仏」を唱えながらも、私は父にいつも語りかけます。それも生前と同じように頼みごとばかりしている気がします。

 正月に神社に初詣にでかけたときは、さすがに神社にまつられた神さまにお願いするのですが、やはり願いごとをならべ、必ず成し遂げたい願いごとがあるときなど、おさい銭を多めにして神さまを買収するようなまねをしてしまう自分に苦笑しないではいられません。祖霊信仰と欲得がらみの願掛けと追憶、そんな思いが混じりあっているのが、私の信仰心であって、なんだかで薄っぺらで『沈黙』のような小説など書けるはずがありません。

    ◇

 私がそれでも『聖水』や『爆心』で信仰についてふれたのは、なにごとかを信じて、それにすがりつかないではいられない人間のせつなさと危うさを書きたかったからでした。

 重い病気で苦しむ子どものために一心不乱に神仏にすがり、快癒を願う親をだれも否定はできません。多額のおさい銭も、お百度参りも、凍えながらの水垢離(みずごり)も、人間がひたすらに願い、神仏にすがる姿はなんともせつなくいとおしい。私たちが虫のように、ほんとうに小さなはかない存在であることを思い知るのはそんなときであり、長い人生においてだれでも一度くらいはそんな切羽詰まった心情になるときがあるはずです。

 一方で、ただひたすら熱狂的に信じる人間はなにか恐ろしい。信じる心にはどこかで常軌を逸する危うさが常につきまとっています。私が最初の小説を発表した当時、地下鉄サリン事件が起きたことは前回ふれましたが、教団の実態があきらかになるにつれて、底知れない恐ろしさを感じました。

 ただ、信仰といったものが、ただ神仏を信じることかといったら、それもまたちがうのではないかとも思います。遠藤周作の『沈黙』を読むとモキチとかイチゾウといった、ひたすら神を信じながら殉教するキリシタンが登場しますが、主人公のロドリゴ神父はむしろずっと迷っている。「主よ、あなたは今こそ沈黙を破るべきだ。もう黙っていてはいけぬ」と呼びかける神父の心は、神への信と疑のあいだでゆれうごいていて、その心のゆらぎがこの小説を読むものに感銘をあたえます。旧約聖書のなかの『ヨブ記』も、最後は神への賛美で終わりますが、「なぜ正しいものに神は苦しみを与えるのか」というヨブの問いかけが、やはり胸に迫ってきます。

 信仰とはただひたすら信じることではなく、むしろ信と疑のあいだで激しく心がゆれながら深められていくのかもしれません。=朝日新聞2021年5月22日掲載