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真冬の敦と《 》 津村記久子

 最近、《 》の良さを発見した。《A》《以下は無視しても良い提案》みたいな感じで、いろんなメモで使用している。この数年の最大の流行である〈 〉に匹敵する勢いだ。文中の〈 〉、項目設定・注意喚起の《 》とも言える。《 》は、【 】ほどは主張せず、( )や[ ]よりは適度に強さがある。とても便利なので、できれば十年前に発見したかった。

 《 》を使うことに限らず、年がいってから身についた習慣というのはけっこうある。個人的に大きなものは、冬場に重ね着しているインナーを、外出の際のトイレから戻る時に正しく重ね直せるかというものだ。真冬は、上半身下半身共に二枚のインナーを重ね着していて(仮に上半身AB・下半身ABとする)、私にとっての正しい、もっとも暖かい重ね方は、下半身A→上半身A→下半身B→上半身Bとなっている。そんなこだわりを持っているわりには、わたしは三十三歳になるまで、外出先のトイレでは気が急(せ)いてしまって、いつもめちゃくちゃに重ねていた。インナー同士の順番を守らない程度ならまだいいのだが、最もいいかげんな時は、上のインナーをすべてボトムスの上に出して着たりしていた。そういうことをすると少し寒かったり、デニムのボタン裏のひんやり感が腹を直撃したりしてつらいのだが、それでもトイレの中で落ち着き払って順番を守るということができなかったのだった。それが、三十三歳を過ぎると「大した時間ではない」と割り切ってできるようになった。インナーの順番を守りながら、頭によぎるのはいつも中島敦のことだ。中島敦の享年は三十三歳で、もし自分が敦なら、小説は最高だけどインナーに関してはめちゃくちゃにした状態のまま人生を終えていたのだなと感慨深く思う。いや敦自身は若い頃からインナーの順番を守る人だったかもしれないが。

 《 》ももっと使っていきたい。感染拡大下で発見した新しい拠(よ)り所だ。引き続き予防して生きる。=朝日新聞2021年6月9日掲載