東京五輪の無観客開催が報じられ、いったいどんな気持ちでいればいいか考えあぐねていた折に、この一冊に出合いました。小説家・早見和真さんのノンフィクション『あの夏の正解』(新潮社)。コロナ禍によって甲子園を目指せなかった2020年の高校球児、監督らに密着取材したルポルタージュ。気持ちを整えるうえでシンクロする「何か」が描かれている気がして、読み始めました。
2020年、既に出場校が決まっていた「春のセンバツ」が中止になった後、「夏の甲子園」は、予選にあたる地方大会すら行われずに終わりました。今も鮮明に思い起こすのは、泣きじゃくりながら大会中止の知らせを聞く部員たちの映像です。ご自身も元高校球児の著者・早見さんは、幾多の甲子園出場を果たしてきた名門校2校(済美、星稜)を訪ね、目指すべき頂を喪失した彼らの1年を追い続けました。
上意下達か、自主性か
本には、そんな高校野球の持つ良い面、悪い面の双方がしっかり書き綴られています。かつて誰も経験したことのない事態に見舞われた夏、主力選手、主将、ベンチ入りのメンバーを支える部員、そして監督たちが抱えた苦悩や葛藤に寄り添い、物語は静かに進みます。
高校野球について改めて考えさせられる場面がありました。それは、この特別な「最後の夏」を、最終学年の3年生だけで臨むのか、それとも技量に長けたベストメンバーを結成して臨むかを、決める場面です。
僕が高校の頃は、強権的に上から「言うことを聞け」というのが、いわゆる高校野球のイメージでした。ところが、ここに登場するある監督は、生徒たちの自主性を重んじ、出るメンバーを「なるべく彼らに選択させたい」という道を選びます。彼の姿は、今後の高校野球が変わっていく過程での、一つのスタイルだと受け止める人もいるでしょう。でも、僕には諸刃の剣であると思いました。彼の指導は、ときに、生徒自身に酷な選択をさせることになりえるからです。
監督である自らは、憎まれ役になってもいい。たとえ酷な選択をしたとしても、監督の指示した道であれば生徒同士が割れることはなく、チームが一丸になるためのスピードが加速していきます。ところが、生徒に選択をすべて委ねてしまうと、彼らに葛藤を持たせてしまい、足並みが整わない原因をつくってしまう。「監督の言うことを聞く」式指導とどちらが良いのか、悪いのか、単純に答えは出ないとは思いつつも、指導者のあり方はとても難しいと考えさせられました。
前代未聞の事態を前に、迷う監督
さらに、その監督は、方針変更に出てしまいます。初めから一方の方法を貫いていれば、生徒たちの気持ちの整理はつきやすかったはず。監督という存在は、生徒たちが一丸となって迷わず、突っ走るための環境を整えるためにあると思います。進むメンバーを選ぶこと自体を、すべて生徒に丸投げしてしまうのは、監督としての役割を放棄しているように思えました。
もっとも、誰も経験したことのない、この事態を前にして、教師が迷うのは無理もありませんよね。誰も責められない。ただ、僕自身が痛感したのは、先生とは「偉い、偉くない」以前に「先に生きている人」であるということ。先に生きる人間として、かぶらないといけない泥、つらい選択がある。大人はそれを担う存在でなければならない。それ以前に、いったいこの1年半、どれだけの苦難を子どもたちに強いてきたでしょうか。
文中で、生徒たちが当然のように使う「メンバー」「メンバー外」という言葉も、彼らが置かれた現実を表しています。そんな「メンバー外」の部員たちは、あの夏をどう総括するのか。両校とも、甲子園出場はまったくの「夢物語」ではありません。もう少し頑張れば届くところであるだけに、彼らが直面した過酷さには拍車がかかっています。
「いいんだよ、まだ正解なんか出なくって」
今年の春、「センバツ」が始まった時、中華料理店でひとり昼飯を食べながら中継を見ていました。「うわあ、始まって良かったー!」。若い頃はそんなに興味なかったのですが、高校野球が中止になった去年は、僕自身も喪失感を強く覚えました。多くの人がそうであるように、年齢を重ねるうちに、だんだん好きになっていきました。「箱根駅伝」にも同じ思いを抱くのですが、きっと身体が動かなくなって、自分ではもう叶えられない夢に対し、尊さを求めるからなのでしょう。自らの青春を彼ら・彼女らに重ね合わせるのかも知れない。
高校野球は、選手、監督だけじゃなくて、家族、観客すべてが一体となって成立しています。どうしても僕は、監督や保護者など「子どもをいかに育てていくか」という視点で見てしまいます。インタビュアーである早見さんは、答えを誘導しないように心がけながら彼らの言葉を探っていく。そうご自身も記しているのですが、そもそもインタビューは、どうしたって互いの意図・意思で、間合いを取り合いながら、「気持ち良い方向」に引っ張ってしまうもの。誘導したつもりがなくても、「君の夏の答えを『今』出してよ」と、性急に問い掛けてしまった感じは否めません。子どもたちも、ストーリーになりやすい、模範解答をしているように思える時がある。
本当は「この夏の答え」って、今、出さなくてもいいじゃないかと思います。これからずっと考え続けていけばいい。今、出した答えが正解ではないし、その時に不正解だと思っていたことが、時間が経つにつれ正解に変わっていくかもしれない。まさに、強豪校の補欠部員だった早見さんご自身が、高校野球に対して長らく抱いていた憎しみが、現役部員との会話を通じ、寛解していったのと同じように。
子どもたちが人生の大半をかけて向き合い、目指してきた夢が奪われた。そのことに対する「今の思い」は、あくまで通過点です。まだ終わっていない。取材対象の生徒らは現在もきっと「消化」されていないし、ましてや「昇華」されていない。野球人生が続く子もいれば、そこで野球が終わった子もいる。消防士を目指す子、居酒屋の店長になりたい子もいる。――たった1年。まだ1年しか経ってないわけじゃないですか。僕は言いたい。「いいんだよ、まだ正解なんか出なくって」。だって、大人だって答えが出ていないんですから。この1年半の総括が、何一つできていないんですから。
「あの夏があった」という、ごまかしようのない事実自体は忘れないでおこう。子どもたち、監督、そして僕らが現時点でできることは、そこまでだと思います。
この本は「考え続けるためにある」
べつに著者の早見さんの取材姿勢を批判したいわけではありません。この本は数々の示唆に富む、貴重な一冊です。きっと、ひとりの元球児として、早見さんは他人事じゃなかったのでしょう。元球児として彼らと向き合い、「もし自分だったら」と常に自問自答を繰り返したのでしょう。自らの実力が叶わずして野球を奪われた彼だからこそ、コロナで野球を奪われた子どもたちに寄り添って描こうと思ったのだと思います。その姿には拍手を贈りたい。
だからこそ、この本は、「考え続けるためにある」と僕は思います。早見さんは、終盤で自分自身の高校野球への葛藤が解(ほど)けた、と記していますが、そんなふうに著者個人のエピソードに収斂させるのではなく、むしろ、読者に対して問いを投げかけてほしい。
「あなたにとって、『あの夏』とは?」と。
前にも記しましたが、性急に総括する必要はありません。この本を読み、あの夏の喪失感を思い返してみて、いま、高校野球の、そしてスポーツのあり方についてあらためて考える機会をつくってみてはと思います。皆が失ったあの夏を再確認した僕は、無観客のオリンピックをテレビで見ながら、「観客の声援なくしてスポーツは成り立たない」という思いを強くしています。
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ちばあきおさんの野球漫画『キャプテン』を、改めて読み返してみたくなりました。頼りないけれど、皆に慕われるキャプテンが、仲間たちと共に成長していく物語です。
(構成・加賀直樹)