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小川哲さんが作家として同意する『英文解釈教室』の考え方

 大好きな本の中から一冊を選ぶのはとても難しい。僕の職業が作家であることも、この難しさを助長している。たとえば小説なら『グレート・ギャツビー』、『怒りの葡萄』、『悪童日記』、『わたしを離さないで』、『百年の孤独』、『一九八四年』。小説以外なら『論理哲学論考』、『偶然性、アイロニー、連帯』、『心の仕組み』。もちろんこの他にもたくさんある。キリがないからあげていないが、もちろん日本人が書いた本だって好きだ。チェーホフ、カーヴァー、ブローティガンやヴォネガットなど、著書の中から一冊を選ぶことが困難な作家もいる。寿司とカレーとラーメンと焼肉の中から一番好きな食べ物を選べと言われても、「日による」としか答えられない感覚に近い。

 迷った末、僕は「読み返した回数」という尺度で選ぶことにした。それなら明確に、平等に、客観的に一冊を選ぶことができる。そう決めた以上、可能な限り正確に、「読み返した回数」を思い出した。そこでわかったのは、「読み返した回数」がその本の(僕にとっての)価値と必ずしも比例しないという事実だった。たとえば僕は、『グレート・ギャツビー』を十回以上読み返している。全編を読み返すわけではなく、適当に開いたページを読むだけ、ということもよくある。翻訳で読み返すこともあるし、原著で読み返すこともある。それに対して、『怒りの葡萄』は二回だけだ。新潮社の文庫で読み、早川書房の新訳で読んだ。原著を手に取ったことは一度もない。だからといって、(僕にとって)どちらが重要かを決めることはできない。どちらの本も、まったく別々のやり方で、僕に「生きる」ということの本質(のようなこと)を考えさせてくれた。

「小説」というジャンルに限って言えば、『グレート・ギャツビー』以上の回数、読み返した本はない。しかし、「本」に広げれば話は別だ。『英文解釈教室』を、僕は二十回以上読み返している。

『英文解釈教室』はその名の通り「英文を解釈する方法」が書かれた本で、基本的に大学受験生のために書かれている。初版は一九七七年で、今から四十年以上も前に出版された本だ。当時受験生だった僕は、二〇〇四年の秋に改訂版を手に取った(現在では新装版が出版されている)。僕はその秋から翌年の春までの半年間で、この本を二十回以上読み返した。

 この本の目的は「直読直解」にある。目にした英文を、英文のまま理解するということだ。そのために、英文の構造を理解するとき、頭をどう働かせるべきか、という方法論が記されている。当時、受験生の間では英文の「多読」や「速読」が流行っていたが、僕はその二つの言葉が大嫌いだった(今でも嫌いだ)。日本語の本でも同じことが言えるが、正確に読むことのできない人間がどれだけ多読や速読をしても、誤読の数が増えるだけだ。『グレート・ギャツビー』を速読して、「素性の怪しい金持ちが破滅する話」と理解することに、いったい何の意味があるのだろうか。当時から小説が好きだった僕にとって、『英文解釈教室』の考え方は、まさしく自分が求めているものだった。僕は毎日、この本を読み返し、そこに書かれている内容がすべて頭の中に入るように努力した。本を一周するたびに、僕はこの本の表紙にチェックマークを描いた。受験の当日には、チェックマークは二十個以上になっていた。受験勉強をしていた半年の間、僕の鞄には常にこの本が入っていた。

 この本のことが「大好きだった」か、と聞かれると、自分でもよくわからない。当時の僕には「合格」という明確な目的があり、その目的のために必要だったから読んでいただけだ。目的が達成されてからは一度も手をつけていない。でも僕は、すべての本にそういう側面があるのではないかと思っている。人々は何かを求めて本を手に取る。人生を切り拓くためであるかもしれないし、仕事で必要だからかもしれない。知識を得るためであるかもしれないし、通勤中の暇つぶしだったりするかもしれない。どんな目的にも貴賎はない。一人の小説家として、強くそう思っている。だからこそ、僕は『英文解釈教室』に対する自分の想いを「大好きだった」と名づけたいと思う。