「個の狂気」から「集団の狂気」へ
――竹本さんのライフワーク『闇に用いる力学』がついに刊行されました。全3巻、原稿用紙3900枚にもおよぶ超大作です。まずは率直に今のお気持ちを。
この小説の構想が生じたのは、僕がデビューしてそんなに間がない頃だったので、かれこれ40年以上も付き合ってたようなものなんです。1997年に1冊目の『闇に用いる力学 赤気篇』を出した頃は、「ほんとに終わるのかな、埴谷雄高の『死霊』みたいに未完で終わっちゃったらまずいよな」と思ってたんですけど、なんとか形にできてホッとしていると同時に、いささか燃え尽きたようなところもありますね。
自分がそこそこ面白いものを書けたのか、とんでもない愚作を書いてしまったのか、今はまだ客観的な評価がまるでできないでいるので、なんとも宙ぶらりんな、頼りない心理状況です。
――〈赤気篇〉の連載スタートが1995年。第2巻の〈黄禍篇〉と第3巻の〈青嵐篇〉は2008年から2017年にかけて雑誌連載されました。途中休止期間を挟んだとはいえ、長期にわたる連載でしたね。
〈赤気篇〉を出したのち、すぐ〈黄禍篇〉に取りかかる選択肢もあったんですが、ひと休みしたい気持ちもあり、他に書いてみたい作品もあったりで、しばらく間を空けました。光文社さんから「そろそろ再開しませんか」と言われなければ、永遠に休止したままだったかも知れません。
連載はあとになればなるほどしんどくて、何度も投げ出したい気持ちに襲われながら書いてました。これだけ長い連載で、しかもいくつもの筋立てを並行して進める書き方をしているので、それぞれの筋立てが前回どんな流れで終わったのかを忘れちゃうんですよ。ひとつの節を書き終えて、次の節を書こうとするたびに、その節に至る脈絡を読み返して確認するんですけど、あとになるほどその量がどんどん累積していって、果たしてのべで何十回読み返したのか分からないくらい。そんな作業がまあつらかったですね。
――『闇に用いる力学』のメインテーマは「集団の狂気」だそうですが、執筆の経緯についてあらためて教えていただけますか。
僕がデビューしたのは「幻影城」という雑誌で、発行元である絃映社は「地球ロマン」というオカルト雑誌も出していたんです。当時僕はその「地球ロマン」の世界にぞっこん痺れてまして、オカルトの世界って面白いな、こういう面白さを自分でも表現できたらいいなという想いがデビュー以前からあったんですね。
デビュー当初は「個の狂気」にとにかく関心があったんですけど、『囲碁殺人事件』から『狂い壁狂い窓』へと至る数作で、そのテーマはある程度書けたという手応えがあって、さて、ではその先はというところから、ごく自然に「集団の狂気」が射程に浮かびあがってきた感じでしょうか。そうなるとあの「地球ロマン」だ。「集団の狂気」というテーマで、「地球ロマン」的なオカルトの世界を全面展開させれば面白いものになるはずだ、という胸算用も立ちました。ただ書くのがめちゃめちゃ大変そうなので、もっと経験値を積んで、作家的力量をつけてから挑戦しようという心づもりでしたね。
東京の壊滅を幻視する
――とある畜産研究所の秘密を暗示するプロローグに続いて、物語序盤では東京で次々と巻き起こる異変が描かれます。相次ぐ原因不明の突然死、少年少女の失踪、宗教団体の乱立。東京全体がじわじわと、不穏な影に覆われていきます。
この作品は「東京がグシャグシャになって終わる」というイメージだけが事前にあり、そこに向かって書き進んでいったという感じでした。僕はそもそもミステリでも、あまりきちんと設計図を作らないんですよ。ラストはこうなるというのをおおまかに設定しておいて、そこに向かって掘り進んでいく。それが今回は東京崩壊というヴィジョンです。ただ東京はやっぱり手強くて、そう簡単には崩れてくれなかったですね(笑)。予定よりだいぶ長くなってしまったのはそのせいです。
――東京の崩壊を幻視する、という物語になった理由は。
今でこそ佐賀に住んで、それなりにのんびり気楽に暮らしてますが、そのいっぽうで僕という人間はつくづく根なし草な、都市空間が身にあった人間だな、という自覚がひとつ。それにこういう事件を起こしていちばん面白いのは、やっぱり都市空間だろうという考えもありました。中井英夫の『虚無への供物』が孕んでいる都市論的な部分にも触発されたところがあるような気がします。
――やがて都内の住宅地に人喰い豹が現れて、次々と住人を襲い始めます。このあたりの異様なイメージはどこから出てきたものですか。
おおもとは江戸川乱歩ですね。僕は乱歩のいわゆる通俗長編では『人間豹』がいちばん好きなんです。現代の東京で乱歩的なガジェットを自在に動かしたら楽しいだろうなっていう願望ですね。
実際の被害者数はわずかでも、夜の東京に豹が跋扈しているという、そのイメージ自体がどんどんふくれあがっていく。その恐怖が暗示効果をいっそう深めて、人びとを妙な方向に押し流していく。そんな素材のひとつとして面白いんじゃないかと思いました。
現実はもっと割り切れないもの
――混沌に包まれていく東京で、無数の宗教団体や政治結社が不穏な動きを見せ始めます。この展開は1990年代半ばを舞台にしていることもあり、一連のオウム真理教事件を連想させます。
オウム事件は、ピラミッド構造の組織のなかで、すべてが上意下達で行なわれたという解決が僕にとって何とも受け容れ難いものでした。話としては分かりやすいんだけど、現実ってそんなに簡単なものじゃないんじゃないの。もっと複雑にいろいろなことが干渉し合って、当事者にも予想できなかったような事態を招いてしまうのが本当じゃないの、という想いです。だからそういう意味では、集団の狂気としてよりリアルなものを書いてやろうという動機づけを与えてくれた側面もありますね。
――現実の向こうにある、より生々しいリアルを描いているという感覚ですか。
一般にはそう思われてないでしょうけど、僕は自分自身をリアリズムの人だと思っていて(笑)、自分なりにリアルなものを、できるだけリアルに書きたいという想いが強いんですよ。
たとえば実際に豹が徘徊することはないかも知れませんが、そんな状況が世界線のひとつとしてあってもおかしくないはずだという気持ちはありますね。無数にある世界線のひとつをたまたま僕らは生きているに過ぎない。わずかなボタンの掛け違いで、とんでもない現実に落ちこんでいくかも知れない。今この瞬間にも、そういう危うい綱渡りを続けているんじゃないか、ということはよく考えます。
――心理学、遺伝子工学、陰謀論、オカルトなど幅広い分野の知識を詰めこんだ、百科全書的作品になっています。この膨大なアイデアは事前に用意されていたんでしょうか。
ある程度のストックはありましたが、途中からはこの作品に使えそうなネタを探しつつ、それを吐き出していくという感じになりました。例えばメルドという疫病の造形は、連載再開前に話題になったSARSが大きなヒントになってます。高齢者ほど死亡率が高く、若い人はそれほど症状が出ないということを知って、ああ、これは使えるなと。〈青嵐篇〉では近年各地で起こっている集中豪雨を取り入れてます。
――結果的にはコロナの時代を予見したような内容となっていますね。物語と現実の一致に、何度も驚かされました。
昨今のコロナ禍を見ていて、あれあれ、いろんな部分で小説の通りになっているなあと。そんなつもりはなかったので、自分でも不思議な気持ちがしています。
「眩暈」の感覚を味わってもらいたい
――主人公の一人である心理学者・茎田諒次は、ミューという少女に率いられた超能力者集団に遭遇し、未知の世界へと足を踏み入れることになります。このあたりの展開はSF的とも言えますね。
実際、SF作品もいくつか書いてきた身で言うのも何なんですが、小説に限っていうと、僕はもう恥ずかしいくらい、ごくわずかしかSFを読んでないんですよ。ただ、マンガや映画を通してSFの世界にはあたり前のように触れてきました。もともと科学的なものは大好きでしたし。そういう空気のように摂取してきたSF的教養からすれば、超能力というのもごくごくありふれた素材ですよね。ミューのキャラクターは自分でもけっこう気に入ってます。
――一方、連続突然死の謎を追いかけていた投書マニア・矢狩芳夫は、鳥羽皇基という男に出会います。蛇のような眼をした鳥羽は、この作品でもひときわ不気味な印象を与えるキャラクターです。
ここでも『人間豹』が出てくるんですが、講談社版の『江戸川乱歩全集』に、横尾忠則さんが描いた人間豹のイラストが載ってて、それが何とも不気味で、強烈に印象に残ってました。ああいう気色の悪い人間を出したいなという想いから生まれたのが鳥羽皇基です。事件の陰で暗躍しているらしいけど、その行動の幅も、具体的に何をどうしようとしているのかもよく分からない、最後まで底の知れない怪人物ですね。まあ、そういう人物が何人も出てきますが(笑)。
――その他にも数多くのキャラクターが登場。錯綜した人間関係とともに、異様なエピソードが次々に語られていきますが、物語の全体像はなかなか姿を現しません。まるで巨大な迷路の中を歩いているような読書体験です。
小説や映画に触れていて、僕がいちばん味わいたい感覚は「眩暈(めまい)」なんですよ。とにかくクラクラしたい。いったい何が起こってるんだ、自分はどこに立たされてるんだっていう感覚を味わいたいんです。必定、読者にも眩暈を感じてほしいという想いが強くあって、そのためのテクニックを自分なりに模索し、積みあげてきました。いっけん脈絡のない複数のエピソードを連ねていくという手法も『将棋殺人事件』で試みて、割合うまくいったような気がしたので、以来多用してます。「読みづらい」ということで、一般読者にはあまり評判はよくないですが(笑)。
――凶悪犯罪、疫病、自然災害。度重なる異変によって、いよいよ壊滅の危機に瀕してゆく東京。壮大なスケールで描かれた物語は、〈青嵐篇〉においてひとつの決着を迎えます。といってもその幕切れは、いかにも鬼才・竹本健治らしいものでした。
僕のなかに、事実はひとつに収束しない、という思いが抜き難くあります。世界は決してひとつではなく、複数が並び立って存在している。それこそが真のリアルだと思えてならないんです。だからお断りしておくと、この作品には回収されない伏線がそれこそ山のようにあります。ミステリ的なカタルシスをごっそり犠牲にすることによって、これが現実だよね、現実ってこういうものだよね、というのを表現したかったんです。
だからミステリ読者にこの小説がどう受け止められるか、非常に怖いですよ。ある程度僕のものに慣れた読者なら、ああ竹本健治だなと納得してくれると思いますが、一般のミステリ読者には壁に叩きつけられるかも。
恐怖のテクニックに翻弄される快楽
――3分冊の通常版と全1巻の電子書籍版、そして特別小冊子などが付いた豪華特装版が同時に発売されるという刊行形態も、大きな話題ですね。
そのあたりについては僕はほぼノータッチで、編集部にお任せです。この作品をどう売り出せばいいかと、かなり時間をかけて考えていただいて、特装版の小冊子には綾辻行人さんらが力を貸してくれました。ただでさえ通常版でも高いのに3万円もする特装版なんてどれだけ売れるのかとひやひやでしたが、熱心な読者の方がたが思ったよりいてくださったようで、有難く思っています。ただ、在庫はまだあるようです(笑)。
――『闇に用いる力学』は一種の恐怖小説ともいえます。ところで竹本さんは怖いものや苦手なものはありますか。
子どもの頃は怖がりでしたが、成人してからは一般の人よりも怖いものが少ないような気がしますね。お化けも全然怖くないし、高いところや虫も大丈夫です。そのいっぽう、苦手なものはいろいろあって、いちばんは人前に立つこと、人前で喋ることですね。だから本当はこういうインタビューもイヤです(笑)。
それはさておき、僕はあまり怖がりの人間ではないんですが、ホラーは小説でも映画でもやっぱり怖いです。それは扱われているモノや事柄それ自体ではなく、怖がらせのテクニックに感応してるんじゃないかと思うんですね。不穏なシーンが積み重ねられたり、不意に事柄の裏の面を見せられることでぞっとする。その感覚がたまらない。さっき言った言葉につけ加えますが、僕にとって、小説や映画から味わいたいのは一に「眩暈」、二に「恐怖」です。というわけで、読者の皆さんにもできるだけ恐怖という快楽を提供できればと思っています。
――ではこれから『闇に用いる力学』を手に取る読者にメッセージを。
まだ客観的評価が全然できてない状況なのでメッセージと言われても困るんですが(笑)。まあ、多分、恐らく――他ではあまり味わえない読み心地の小説になっているのではないかと思いますので、興味を惹かれた方は是非手に取ってみてください。