超然と広がる視野、「希望」見逃さない
大江は高知県の現・大月町に生まれ、10代で父とともに上京。生田春月の主宰する詩誌『詩と人生』に参加、その後はプロレタリア作家として活動し検挙も経験した。一方で、太平洋戦争期には代表的な詩集『日本海流』(43年)に収められる作品をはじめ、戦争詩を幾つも残した。
戦後は詩壇から距離を置き、キリスト教者としてユネスコの平和運動などに加わる。50年代以降はハンセン病文学の書き手とともに活動し、哲学者・鶴見俊輔らとハンセン病回復者の宿泊施設「交流(むすび)の家」(奈良市)の設立を支えもした。
大江の名前は現在、一般社会はおろか詩壇においても語られることが極めて少ない。「戦中、戦後を通じ、大江が描いた世界を、誰も本当の意味では理解し得なかったのだろう」と、詩人の瀬尾育生さんは指摘する。
「戦争詩」のなかにも
瀬尾さんは著書『戦争詩論 1910―1945』(平凡社、2006年)に「大江満雄の機械」という評論を収めた。大江の詩の特徴はその「超越性」にあると瀬尾さんは語る。
たとえば、戦争賛美として批判される「四方海」という作品。
日本列島は不滅の巨艦。 この巨艦をまもる艦船のあまた。
洋上に物をはこぶかの大小の船。 きのふ海戦に勝てど、けふわが方も撃破さるとおもへ。
かの渺渺たる海。 おもひ見よ機械と機械との戦ひ。
一見戦意を高揚しているが、その奥には人間を超えた「機械と機械との戦い」があることが描かれる。「他の戦争詩が国家や天皇を至上としていたのとは異なり、大江は『機械』や『神』といったものをより上位におき、そこから戦争を考え続けた」
「大江は戦争詩に与(くみ)したことを隠さず、弁明もしなかった。戦争詩を無条件に否定することに立脚した戦後詩壇は、彼が示そうとしたものを真正面から受け止めることができなかったのでは」と瀬尾さんは話す。
ハンセン病文学育む
大江が後半生で特に情熱を傾けたのが、ハンセン病患者や回復者の文学活動だった。各地の療養所まで赴き、創作を呼びかけた。その営みは53年、『いのちの芽 日本ライ・ニューエイジ詩集』というアンソロジーに結実した。
空はアイヌのいれずみ色。 私は檻(おり)で見た熊を想像した。(中略)わたしたちのための癩(らい)院は、熊の檻ではない。 未来への想像があり希望があると、もうひとつの心がいう。
(島比呂志「幻想」から)
大江により島や谺(こだま)雄二、志樹逸馬ら優れた書き手が何人も見いだされた。アンソロジーの刊行にあたり、大江は「今日のハンゼン氏病の詩人たちには悲惨な中にも『生の中の生』、もっとも人間らしいもの、希望がある」と書いている。
国立ハンセン病資料館の木村哲也学芸員は「大江は北條民雄、明石海人の呪縛から、ハンセン病文学を解き放った」と話す。「いのちの初夜」をはじめとする北條の小説や明石の歌には諦観(ていかん)や絶望が色濃く漂っている。だが、戦後の若い書き手たちの中に「希望」や「対話」の精神が芽吹いていることを、大江は見逃さなかったと木村さんは言う。
生前の大江と面識もある木村さんは、『大江満雄集』(思想の科学社、96年)の編纂(へんさん)にも携わったほか、『いのちの芽』に加わった当事者たちを訪ね、大江の足跡をたどった。木村さんは「文学のみならず、大江との出会いをきっかけとして権利向上の闘いに身を投じた人も大勢いた。ハンセン病患者や回復者たちの生き様に、深い影響を与えた人物だった」と振り返る。
東日本大震災やコロナ禍など大きな災厄が続く今こそ、「大江という存在に光が当てられるべきだ」と、瀬尾さんは強調する。
国家や公共に個人を没入させた戦争詩の反発として、戦後詩が「個」を志向した結果、詩は「私的なこと」以外を語る力を失っていったと瀬尾さんは言う。けれども、社会が大災厄に次々と見舞われる現在、詩は私的な空間に閉じこもってばかりはいられない。
「目先の状況にとらわれず、大なるものに対してまったく別の視野を超然と広げていった大江の詩は、閉塞(へいそく)感を抱く私たちに新たな言葉のヒントを与えてくれるのではないか」(山本悠理)=朝日新聞2021年10月6日掲載