この本は、デヴィッド・フォスター・ウォレスによる、米国オハイオ州のケニオン・カレッジの卒業式におけるコメンスメント・スピーチ(祝辞)だ。大学を卒業して、これから世の中へ出ていこうとする学生たちに向けられた「はなむけの言葉」。そのおよそ3年後、2008年9月に、ウォレスは自死する。『ヴィトゲンシュタインの箒(ほうき)』『無限の道化』などの長編小説を書いた作家ウォレスは、双極性障害に悩まされ続けていた。
このスピーチの日本語訳『これは水です』が版を重ねているという。なぜだろう。学ぶこと、とくにリベラル・アーツ(一般教養、人を自由にする学問)の視点からこのスピーチを考える訳者解説が、本書の巻末にあるが、スピーチの本文から伝わる感触は、生きることとぶつかるように向き合うほかないウォレスの姿勢の烈(はげ)しさだ。
痛々しいほど剥(む)き出しの状態の神経が感じられる。ウォレスは、このスピーチをしている間、生の手応えと呼ぶべきものを実感していたのではないか。だからだろう。剣の切っ先のような、ぎらっと光る確信や信念が、読む者の心を突き刺す。
「なにを考えるべきかを選ぶ」「ものの考えかたを学ぶ」という言葉が出てくる。スピーチ全体が、このテーマの周りをぐるぐると巡っている。ウォレスによれば、それこそが「ほんとうの教育がもたらす自由」「ほんとうの自由」に通じる道ということになる。
現代文明や社会に向けられる批判的な視線。いかに生きるかを考え、よりよい在り方を希求する精神。生きることの困難と対処方法について自分が気づいたことを、ウォレスは、これから世の中へ歩み出す人たちにぜひ伝えたいと願った。
目の前に「水」があるとする。そのとき「これは水です」と、当たり前とも捉えられる確認と宣言が出来るかどうかだ。慣れた日常をくぐって、生きることを直視し、受け止める方法が、簡潔な言葉で語られている。=朝日新聞2021年10月16日掲載
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阿部重夫訳、田畑書店・1320円=9刷1万4千部。18年刊。若者を中心に大学生から社会人まで幅広く読まれ、ロングセラーに。1人で何冊も買っていくケースもあるという。