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「死、欲望、人形」書評 20世紀芸術の辺境に立った生涯

評者: 生井英考 / 朝⽇新聞掲載:2021年11月13日
死、欲望、人形 評伝ハンス・ベルメール 著者:ロバート・ショート 出版社:国書刊行会 ジャンル:伝記

ISBN: 9784336072252
発売⽇: 2021/08/20
サイズ: 22cm/402,25p 図版16p

「死、欲望、人形」 [著]ピーター・ウェブ、ロバート・ショート

 かつてベルメールの人形美術を「芸術を踏み越えた危険な魅惑」の呪物だと若い読者の耳元にささやいた澁澤龍彦が存命だったら、この浩瀚(こうかん)な評伝を手になんといったろうか。
 ハンス・ベルメールは1930年代、政権を掌握してまもないナチス統制下のベルリンから、パリのシュルレアリストたちの世界に登場した美術家である。
 謹直なドイツ帝国の中産階級だった父の権威に反抗し、文学と芸術の夢想に退行するところから倒錯的な性にめざめたというその成育歴はあまりにでき過ぎた物語のようだが、そう感じるのはおそらく、大衆文化のすみずみにまで、薄められて商品化されたエロスの浸透した現代人の僻目(ひがめ)というものだろう。
 実際、裸形の少女人形のカラー口絵や挿図を多数掲載した本書は、その図版類だけでも、かつての「ブーム」と呼ぶべきベルメール人気を覚えている世代を改めて圧倒する。いわんや現代の若者世代をや。
 だが同時に、現代のジェンダーやセクシュアリティーの意識に照らしてみるとき、本書が詳細に描き出す「二十世紀芸術の辺境に立つ」「精神的な冒険家であり、知の探究者」の生涯は、普遍的な人間精神の深淵(しんえん)に沈降する芸術家の肖像という以上にむしろ、近代文明の頭上を覆う高圧的な男性性がもたらした歪(ゆが)みといったもののほうを感じさせずにはおかない。
 かつて父の影におびえた少年は、70年代半ば、人生の終わりに「自らの探求がその真価を認められたことに満足を覚え」ながら世を去ったろうと著者はいう。が、その後の世界は大衆化された性の幻想をあつかいあぐね、途方に暮れるか、さもなくば玩弄(がんろう)に走るかになってしまったのである。
 シュルレアリスム論はとかく自己陶酔におぼれがちだが、訳文は節度よく見通しもよい。巻末の解説は澁澤や種村季弘らが主導した往時のベルメール人気の足跡を手短に紹介している。
    ◇
Peter webb  1941年生まれ。英国の美術史家▽Robert Short 1938年生まれ。共著に『シュルレアリスム』。