須藤靖(東京大学教授)
(1)権力は腐敗する(前川喜平著、毎日新聞出版・1760円)
(2)実在とは何か 量子力学に残された究極の問い(アダム・ベッカー著、吉田三知世訳、筑摩書房・2750円)
(3)中野のお父さんの快刀乱麻(北村薫著、文芸春秋・1705円)
政治からオリンピック及び大学に至るまで、同じメンツが長期間トップに居続ける体制は必ず腐敗することを再確認させられた一年だった。(1)で指摘された諸問題が何一つ解決しないまま年を越す。でも信じよう。「世の中は変えられる。諦めてはいけない」のだ。
量子コンピューターの実用化を見据えて、量子力学を使いこなせる人材の育成が国の将来を左右する急務になりつつある。一方で、量子力学が投げかける「実在とは何か」との根源的疑問は未解決のまま。(2)は歴史的物理学者らが提案した異なる解釈に基づき、量子力学的世界観を紹介する。
年末年始はコタツのなかでゆったりと過ごしたい向きには(3)がお薦め。美は細部に宿ると言わんばかりの著者の薀蓄(うんちく)には完全に脱帽である。
戸邉秀明(東京経済大学教授)
(1)藤井忠俊著作集 全2巻(藤井忠俊研究会編、不二出版・各7480円)
(2)持たざる者たちの文学史 帝国と群衆の近代(吉田裕著、月曜社・4950円)
(3)江戸遊民の擾乱(じょうらん) 転換期日本の民衆文化と権力(平野克弥著、本橋哲也訳、岩波書店・5060円)
(1)は国防婦人会など、草の根の翼賛を究明した在野歴史家の著作集成。1970年代の「季刊現代史」から松本清張『日本の黒い霧』論、本業の公衆衛生の文業まで、行き届いた編集だ。
(2)は20世紀のカリブ海やアフリカの作家たちが、自らを歴史の主役として描くための悪戦苦闘を論じる。脱植民地化が足下のアジアに直結していく世界史の連動を明かす本書は、英文学の専門書の域を越える。
(3)は江戸幕府の風俗統制と民衆文化の角逐から、身体ではなく心に働きかける近代独特の統治技術への転換を捉える。西洋の文化理論による徹底した再解釈が新たな議論の地平を開く。
気づけば3冊とも民衆が主題。コロナ禍、五輪、総選挙。いずれの現実も、私たち自身の問い直しに行き着く。
トミヤマユキコ(ライター)
(1)東京の生活史(岸政彦編、筑摩書房・4620円)
(2)開局70周年記念 TBSラジオ公式読本(武田砂鉄責任編集、リトルモア・1760円)
(3)一度きりの大泉の話(萩尾望都著、河出書房新社・1980円)
ちょっとしたことはネットで調べればすぐわかってしまう世の中で、本でなくては読めないことが書かれている本が、とても大切に思えた。(1)はまさにそういう本。150人の人生を、150人が聞いて書く。とにかく分厚い。東京で暮らす知らない誰かの人生を浴びるように読む愉悦があった。(2)はラジオの世界から採集された声の数々。話芸の達人たちの語りだから、面白さは折り紙つきだし、資料価値も高いと感じた。
書評欄で取り上げた本の中で印象に残っているのは(3)。読んだ時の衝撃が、今も忘れられない。少女マンガ界の見え方が変わる可能性のある一冊をどのように紹介するか、本当に腐心した。ちなみに、読んだ人たちと感想を言い合う機会がもっとも多かったのも、この本だった。
藤原辰史(京都大学准教授)
(1)台湾、あるいは孤立無援の島の思想(呉叡人著、駒込武訳、みすず書房・4950円)
(2)エリック・ホブズボーム(リチャード・J・エヴァンズ著、木畑洋一監訳、岩波書店・上下各5830円)
(3)麻薬と人間 100年の物語(ヨハン・ハリ著、福井昌子訳、作品社・3960円)
(1)は、海流に包まれた島じまのつらなりに自分たちが生きているという当たり前の事実を、大国に挟まれ、翻弄(ほんろう)され、希望を失った地点から見つめ直す逆転の思想書。「これは焚書(ふんしょ)を待つ一冊の本である」から始まる序文は、詩人でもある著者の真骨頂。
(2)は、世界的歴史家の伝記。経済も階級もジャズも義賊も縦横無尽に論じるホブズボームの圧倒的な筆力の背景に、MI5に盗聴されるほどの同時代の政治との緊張関係と、同時代の友人たちとの活発な交流があったことを知る。(3)は、麻薬の厳罰化が、闇で流通する麻薬の毒性を高め、裏社会に莫大(ばくだい)な富をもたらし、暴力を蔓延(まんえん)させたという逆説を、膨大な聞き取りと文献調査で明らかにした。麻薬の密売人の言葉が壮絶である。
保阪正康(ノンフィクション作家)
(1)戦争障害者の社会史(北村陽子著、名古屋大学出版会・5940円)
(2)メルケル 世界一の宰相(カティ・マートン著、倉田幸信、森嶋マリ訳、文芸春秋・2475円)
(3)清六の戦争 ある従軍記者の軌跡(伊藤絵理子著、毎日新聞出版・1650円)
今年は読みごたえのある書が目立った。読者の要求が高くなっているのかもしれない。(1)は戦敗国兵士の戦傷を通して福祉の源流を探る書。こうした視点は、戦傷者と国の関係を洗い直す意味を含んでいる。随所に戦争という国家事案の責任が浮かび上がる。
(2)は女性ジャーナリストの多角的取材を元にした評伝。彼女自身も旧東欧圏出身で、メルケルの心情や才気の原形質を知りぬいているのが、この書の特徴である。メルケルとプーチンは思想も信条も異なるのに2人の間に信頼が存在するのは、それぞれの文化と言葉を認め合っているからとの分析は興味深い。戦時ジャーナリストを追跡調査した(3)は、新しい戦記報道の指針たり得ている。歴史を覚醒させる手法だと評価したい。