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岸政彦「東京の生活史」 ばらばらながら必要不可欠、150人の声

 どの頁(ページ)からでもよい。この厚い本を開いてみれば、名前や年格好もはっきりとしない誰かの声が、藪(やぶ)から棒(ぼう)に聞こえてくる。しかしその声に耳を傾けてみると、「全部お店やめてからね、ヤクルト始めた」「もう何百人目かの俺なわけですよ」など、その語り手にしか存在しなかったライフヒストリーが、生きた時代や環境とともに、ざらざらとした手触りで立ち現れる――。

 『東京の生活史』はまず聞き手を募集、その後150人の聞き手それぞれが、自ら選んだ語り手の話を聞きとり、合計150の生活史を集めるというプロジェクト。2段組み1200頁という大著だが、よくこれで収めたものだ(とてもキリがない)というのが、読んでの偽らざる感想だ。

 この本は制作時から話題になっており、当初その話を聞いたとき、はたして東京という捉えどころのない都市の姿が、一冊の本としてまとまることがあるのだろうかと疑念をもった。

 しかしそれは杞憂(きゆう)であった。

 ある街を俯瞰(ふかん)ではなくそこにいる人の存在により語らしめること。そのようなことが可能だとは思いもよらなかったが、長年聞きとり調査を行ってきた社会学者の編者にとって、それは自明のことだったのだろう。本書には、そこにいる一人一人はばらばらながら、どのピースもすべて必要不可欠な、わたしたちがよく知る「東京」の姿が見事に再現されていた。

 この本には150の人生が収録されているが、どの話も本当に面白く、知らず知らずのうちに引き込まれるものばかりであった。それは何も聞き手や語り手が特別だからというわけではなく、本来、人の人生がそういうものだとしか言えないのだろう。ただ通りすぎただけでは聞こえてこないけど、耳を傾ければはっきりと聞こえてくる声。「語るに足らぬ人生」などないのである。東京という無縁の都市で、見知らぬ他者にひと時心を寄せる本であった。=朝日新聞2022年2月12日掲載

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 筑摩書房・4620円=5刷1万7千部。21年9月刊。30~40代男性によく読まれている。読者の投票を元に人文書ベスト30を選ぶ「紀伊國屋じんぶん大賞2022」で1位に選ばれた。