私は驚くほど視野が狭い。眼科に行かねばならない現実的な視界ではない。興味あることに遭遇すると、皆目周囲が見えなくなるのだ。
先日、近所で散歩中の柴犬(しばいぬ)に遭遇した。可愛いなあとにこにこしながらかたわらを通ろうとすると、当の柴犬の飼い主さんから「澤田さん?」と声をかけられた。見れば何と、ご近所にお住まいの大学の先輩である。その方が犬を飼っていらっしゃることも、朝夕、散歩に行っておいでであることも承知だったのに、あまりに柴犬が気になり過ぎて、それ以外を一つも見ていなかった。
これは今に始まった話ではなく、十代前半まではよそ事に気を取られ、頻繁に電柱に激突していた。近年も取材中に溝に落ちたり、段差を踏み外したりした折は数知れない。
それにしても先輩のお宅の柴犬は可愛かった。換毛期特有の丸み、ちょこんと愛らしい鼻先は、周囲に目配りつつでは鮮明に記憶できなかっただろう。ならば視野の狭さも悪いことばかりではないが、一方で私がこんな気性のままでいられるのはひとえに一緒に出掛けるたび、「溝があるよ」「車が来るよ」と注意してくれる友人家族や、ご自分から声をかけてくださる先輩たちの優しさのおかげだ。
私の子ども時代、駄菓子屋さんで型抜きガムなるものが売られていた。鳥や船などの模様がガムに型押しされ、力を加えるとすぽっと抜き取れる。ここにおいてたとえばガムからハート形が抜き取られた時は、それ自身がハート形を成すとともに残る周辺部のガムも同じ形を浮かび上がらせる。もしかしたらそれは人間にも当てはまり、私という個人を存在させるのは、私自身であると同時に周囲でもあるのではないか。
ちなみに私はといえば、型抜きガムがとても苦手だった。ある一点をうまく抜き取ろうと奮闘していると、必ず他の箇所を傷つけてしまうのだ。なるほどこれまた、視野の狭さのせいである。=朝日新聞2022年3月30日掲載