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「ヒカリ文集」 男女六人を惑わす「偽物の恋人」 朝日新聞書評から

評者: 金原ひとみ / 朝⽇新聞掲載:2022年05月07日
ヒカリ文集 著者:松浦 理英子 出版社:講談社 ジャンル:小説

ISBN: 9784065267462
発売⽇: 2022/02/23
サイズ: 20cm/247p

「ヒカリ文集」 [著]松浦理英子

 元劇団主宰者、破月悠高(はづきゆうこう)が泥酔の挙句(あげく)横死した後、遺稿が発見された。
 「自分の書いた物のせいで変になるってこと、あると思う?」。妻、久代はその原稿が悠高の死を誘発するきっかけになったのではと考え、劇団の花形俳優であった裕(ひろし)に遺稿を送り、そう聞く。それは悠高が元劇団員らを招待したホームパーティのシーンを描いた戯曲で、招かれたのは皆ヒカリという女性を愛したことのある人々だった。
 久代の提案により、パーティに参加していた久代と裕も含めた五人は、ヒカリと過ごした日々を小説や手記の形で書くこととなる。つまり悠高も含め六人それぞれが書いた六篇(へん)で、本書は構成されているのだ。章タイトルは書き手の名前に統一されているが、それは悠高が戯曲でつけていた役名であり、読者は二重にも三重にも作られた入れ子の中に足を踏み入れていくような気分で読み進めることとなる。
 次から次へと劇団内でパートナーを替えていくヒカリは悪女としては描かれないものの、望みの台詞(せりふ)を言ってくれるロボット、偽物の恋人、介護されている気がする、とも書かれる。六人から語られるヒカリの姿は、一貫している部分もあるが、それなりの相違も散見される。人の気分を良くさせる才能に長(た)けたヒカリは六人に心から慕われていたが、彼らの目にはそれぞれのフィルターを通したヒカリしか見えていなかったことも明らかになっていくのだ。
 さらに彼女に振られた劇団員たちが、ヒカリ主演で(ファム・ファタル〈魔性の女〉を書いた最初の文学と言われる)「マノン・レスコー」を上演したいと提案し、力を合わせて実現させていく流れも、入れ子の複雑さを加速させる。
 読みながら何度も構造の精巧さに驚かされた。作中作の六篇にはそれぞれの物語があり、この全てがまとまった本書には、それらとはまた違った物語があり、さらに言えば登場人物らの話題に上る戯曲や古典文学、さらに彼らが上演した舞台作品もまた、本書の礎となっている。物語と物語が丁寧に縫い合わされ、モザイクアートのようにしてヒカリの姿を映し出しているかのようだ。しかしヒカリは、書かれても書かれても物語の外側にいるように感じられる。
 つまり本書は、物語の中を生きていない人の空白を物語で埋めようとし続ける人々の壮大な失恋の物語と言えるのかもしれない。本書に宿る、物語を巡る静かな狂気は、変になってしまったとしても構わないと断言できるほど切なく力強い。
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まつうら・りえこ 1958年生まれ。作家。2008年、『犬身』で読売文学賞。2017年、『最愛の子ども』で泉鏡花文学賞。著書に『ナチュラル・ウーマン』『親指Pの修業時代』『裏ヴァージョン』『奇貨』など。