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「香君」(上、下) 孤独を抱えたまま共存するには 朝日新聞書評から

評者: 磯野真穂 / 朝⽇新聞掲載:2022年05月21日
香君 上 西から来た少女 著者:上橋 菜穂子 出版社:文藝春秋 ジャンル:小説

ISBN: 9784163915159
発売⽇: 2022/03/24
サイズ: 20cm/435p

香君 下 遙かな道 著者:上橋 菜穂子 出版社:文藝春秋 ジャンル:小説

ISBN: 9784163915166
発売⽇: 2022/03/24
サイズ: 20cm/460p

「香君」(上、下) [著]上橋菜穂子

 小説の言葉はやさしい。そう思う時がある。それは、残酷なことが書かれていないといった意味ではない。小説はそこに、想像のための余白を残す。だからやさしい。
 テレビや映画、論述に現れる言葉ももちろん面白い。しかし、映像や音楽、出演者の表情や抑揚など、想像しやすいように施された演出が、言葉の行き先を縛ってしまう。この言葉は、こう想像してください、と言うわけだ。一分の反論の隙もない論述には、「著者の私こそが正しい」「私のように想像せよ」といった圧を感じてしまう。
 しかし小説にはそれがない。本書の鍵を握る「オアレ稲」や、その天敵「オオヨマ」をどう想像するか。それは読者の自由である。小説の言葉は想像の扉を開く鍵でしかない。その先は読者に委ねられる。それが小説のやさしさだ。
 上橋菜穂子の物語はその点で絶品である。彼女の言葉を鍵にして扉を開き、「帝国」に足を踏み入れる。するとどうだ。主人公アイシャの頰を風がなぶれば、その風を私も感ずる。彼女が草木の悲鳴を聞けば、私にもそれが聞こえてくる。
 言葉だけでなぜこんなことができるのか。その秘密は、上橋がプロットをもとにせず、浮かんだイメージが自(おの)ずから動くに任せ、筆を進めることにあるのかもしれない。上橋の描く世界の中で私は、「共在とは?」「孤独とは?」「救済とは?」と、強烈に問いかけられた。
 自ら考えることが大切と言いながら、私たちは救済が上から降ってくることを求めて止(や)まない。それは楽な道だ。いざ問題が起これば「私にはどうしようもなかった」と責任逃れができるから。しかしその姿は依存だ。共在ではない。
 香りから、草木の声を聞くことのできる力を持ったアイシャは、その類(たぐい)まれな力ゆえに、そこから見える世界を誰とも共有できない孤独を抱える。彼女と共に歩むマシュウ、オリエもまた、異なる孤独を抱える人々だ。かれらはそれぞれの孤独を抱えたまま、依存を脱した、共在の道を拓(ひら)こうとする。
 しかし4月30日掲載朝日新聞のインタビューで上橋は、「いまの社会の何かを描きたくて物語を書いているのではない」と言い切る。現代社会に通ずるメタファーを、こんな“香り立つ”世界に詰め込みながら、それを言うのはちょっとズルくないか。思わず私は、苦笑いしてしまう。
 さて皆さんは、上橋の差し出すやさしさの中で何を思い描くだろう。書き手で完結しない上橋の物語を、ぜひ味わってほしい。
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うえはし・なほこ 1962年生まれ。作家、文化人類学者。1989年、『精霊の木』でデビュー。『鹿の王』で2015年に本屋大賞。『精霊の守り人』をはじめとする「守り人」シリーズや『獣の奏者』など。